かける問い、返す答え

 手を組んで祈っていたアンジェは、目を上げて、イヴァク司教に気が付くと、慌てた様子で姿勢を正した。

 司教は穏やかに微笑み、自身もアンジェの隣で祈りを捧げる。

「円環の神、レヴィ・トーマよ。我らに日々の安息を与え給え。そして、道半ばにして、その命を奪われた者達を、どうかあなたの元で憩わせ給え」

――残っていたんだ。イオリ族が死んでも、彼らが最期に抱いた感情は。

 祈りの言葉を聞くアンジェの耳に、アイラの言葉が蘇った。

――あんなに澱んでいたら、もっと早く形をとっても良かったんじゃないかと思ったんだ

 司教は知っているだろうか。非業の死を遂げたイオリ族。彼らが最期に抱いた感情――憎悪――が、今や形を成していることを。

 断刀であれを斬ったとき、彼女はこう呟いていた。

「断刀は神の太刀。その刃、理の内にあらざれば、理によりて受けること能わず」

 アンジェはランズ・ハンで、神の太刀が霊を斬るところを見ている。切られた霊達は、灰のように崩れて消えていったのを覚えている。

 あの化け物も、斬られて崩れた。だが、消えるところは見なかった。

 それに、アイラはこう言った。

 もうあそこには行かない方がいい、と。

 またアンジェがあそこを訪れ、あの化け物に襲われることを警戒してなのだろう。おそらくは、彼女はあれを倒したわけではないのだ。

「司教様、」

 呼びかけられて、イヴァク司教は笑みを絶やさぬまま、アンジェの方を向いた。

「あのことがあってから、イオリ族の居住地へ行かれたことは、ありますか?」

「はい。一度だけ、ですが」

「あの場所で、何か、良くないものを見られましたか?」

 司教を真っ直ぐに見て、そう切り込む。

「それを聞かれるということは、あなたもご覧になったのですね。彼の地に未だ残る、あの不浄を」

「はい。見ました」

「あればかりは、私でもどうにもできませんでした。立ち入らぬように注意を与え、起きたことを風化させぬように碑を建て、毎日祈りを捧げ、あの場に縛る。それが、私にできた精一杯のことでした。せめて私が生きている間に、あの不浄を、清められれば良いのですが」

「不浄、ですか」

 確かに、そうと言えるだろう。憎悪が形を成したもの。放っておくわけにはいかない。だが、あれに対し、何ができるというのだろう。

 アイラでは何もできず、長年修行を積んできたはずの司教ですら、封じ込めるのがやっと。

「清めることは、できましょうか」

「どれほど時間がかかろうと、やるより他に、手はないでしょうね」

「司教様、あの石碑は、なぜ祈りの文句と、日付しか書かれていないのですか?」

「ああ、そのことですか。当時は、道を外れた者が、あちこちで同じようなことを繰り返していたようでした。目立つところに異教徒を悼む石碑など建てれば、今度はこの町に災いが降りかかるかもしれないと思われたのです。故に、詳しく書くことも、目立つ場所に置くこともできませんでした。本来なら、起きたことをきちんと伝えたかったのですが。その方が、早く清められるでしょうし」

 一つ、司教が溜息を落とす。その表情は、どこか悲しげだった。

「今からでも、書き換えるとか、動かすことはできませんか?」

「できることなら、そうしたいのですが。かの不浄を縛っておくために施した術、それを確かなものとし、永続させるためには、あの場所に楔が必要でした。そして私は、あの石碑に楔の役割を持たせたのです。故に、動かせば、縛りが解けてしまうのです。書き換えることも……今の石碑には、難しいでしょうな。書くだけの余裕がありませんので」

 縛りが解ければどうなるか、アンジェにも想像がついた。

 あの感情の塊は、イオリ族の居住地に縛られている今は、そこに踏み入った者にしか危害を加えない。逆に言えば、行かなければ安全、なのだ。

 だが、その縛りが解かれたならば。あれは、きっと見境なく、人々を襲うだろう。

 憎い、という、その感情のままに。あれには、それしかない故に。

 人ならば、説得できるかもしれない。改心させられるかもしれない。しかし、器もない、ただ残ってしまった感情には、こちらから何かすることはできない。

「司教様、私が、一緒に旅をしている人の言葉ですが、彼女はこう言いました。あの石碑はただの石で、何も伝えないし、記念しない、と。そして……事情を知る人間がいなくなれば、何かの礎石にでも使われるのが関の山だ、と。……今からでも、起きたことを、伝える訳にはいかないのでしょうか」

 イヴァク司教は目を閉じて黙り込んだ。やがて、重く口を開く。

「個人としての私は、そうすべきだと考えます。しかし、神殿に所属する聖職者としての私、司教としての私は……そうすべきでないと考えるのです」

 アンジェが、はっと目を見張る。

「イオリ族の無念を思えば、彼らに降りかかった悲劇、彼らが何者によって殺されたか、それら全てを語り伝えていくのが、正しい道でありましょう。しかし、それを伝えたならば……“狂信者”の存在を肯定することとなる。神の名を免罪符に、『円環』を乱すものが、他ならぬレヴィ・トーマの聖職者である、と、人が知ったならば、神殿の威は地に落ち……そして、我らが神、レヴィ・トーマへの信仰も薄れましょう。神に仕える者として、それは、それだけは避けねばならない。故に、伝えることはできないのです」

 レヴィ・トーマの聖職者であるアンジェにも、その理屈は分かった。アイラが聞いたら怒りかねない言葉だったが、幼い頃からレヴィ・トーマの教えに触れてきた彼女には、イヴァク司教の言葉に理解を示すことができた。

 神は、信仰によって成り立つ存在だ。故に、信仰されなくなった神は、最早神とは呼べない。

 だからこそ、信仰は維持しなくてはならない。

(でも、それは、どの宗教でも同じでは……?)

 アンジェの胸に、疑問が実を結ぶ。

 自分達は、レヴィ・トーマの聖職者だ。それゆえに、宗教のことに関しては、レヴィ・トーマを中心に考える。

 だからこそ、自分達にとって、レヴィ・トーマの信仰を保つことは重要だ。だがそれは、他の宗教にとってもそうなのではないだろうか。

 アンジェの胸に実を結んだ、この疑問は、やがて刃となって、彼女を貫くことになる。

 教会を出ると、日はずいぶん傾いていた。

 ジエンの邸に戻る。部屋にはアイラはおらず、荷物だけが残っている。

 部屋の中央に置かれた、低いテーブルの上には、一枚、紙が乗っていた。

 紙には、走り書きなのか、歪んだ字で、文章が書きつけられていた。

『アンジェ

 もし、私が帰らなかったら、

 タキに、そのことを伝えて欲しい。

 荷物の処分は、任せる。

 アイラ』

 遺言とも取れるようなその書置きは、アイラの内心を何よりも雄弁に物語っていた。

 アイラは、決して呑気だったわけではない。自分が生きて帰れる保証がないことくらい、承知している。

 生きて帰れると思わなかったからこそ、こうして伝言を残したのだ。

 ぺたりと床に座り込む。

「レヴィ・トーマ、どうか、アイラをお守りください」

 アンジェの口から、祈りが零れた。