それぞれの夜

 人の寝静まった深夜、アイラはふと目を覚ました。寝る前は付いていた灯りも、いつの間にか消えてしまっている。寝る前よりは薄れたものの、香の甘い香りが、部屋の中にまだ漂っていた。

 窓から微かに入って来る薄白い月明りで、寝床の周りに複数の人影があるのがぼんやりと見て取れる。

 とっさに起き上がろうとしたが、身体の方は指一本動かない。

 目を凝らしていると、段々目が慣れて来たのか、人影の区別がつくようになってきた。

 そして、枕頭から自分を見下ろしている人影が誰かに気付いて、アイラは心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えた。

 それは亡き父の顔だった。見間違えるはずもない。ランズ・ハンで送ったはずの父が、怨みの形相凄まじく、枕元に立っている。

 目を動かせば、父だけでなく、母や兄の姿も見えた。身体は今だ動かせないが、気配でその三人以外にも大勢いるのが分かる。

(なぜ……?)

――なぜ逃げた。

 温もりなど、一欠片もない父の声。

――痛かったんだよ。

 生々しく血に濡れた兄の声。

――どうして守ってくれなかったの。

 冷たく責める母の声。

「……だっ、たら」

 絞り出した声は掠れていた。仰向けに寝たまま、灰色の瞳で、きっと父親の顔を睨みつける。

「恨んでいるならいると、言ってくれれば良かったんだ……!」

 唸るような声を上げて、身体をどうにか動かそうと力を込める。

 しかし身体の方はぴくりとも動かない。まるで布団に糊付けにでもされているかのように。

 やがて人影はゆっくりとアイラの周囲を回り始めた。誰もが口々にアイラへの恨み言を口にしながら。

 どこか近くで鈍い音が響き、それがアイラをはたと我に返らせた。気付けば部屋にはアイラ一人で、誰の姿もない。荒く息を吐いて起き上がり、自分の身体が動くことを確かめる。

 じっとりと浮いた汗を拭う。

 軽く頭を振って、足を組んで座る。ゆっくりと息をしながら、少しずつ意識を閉ざそうと試みる。

 甘い香りが、息を吸う度にじわりと身体に染み込む。そのせいか、いつものように意識が閉ざせない。

 ついに諦めたアイラは、苛立ちも露わに舌打ちを漏らして布団の上に横になった。

 

 

 

 同じ夜、アンジェも何かを感じたのか、目を覚ましていた。あまり夜中に目を覚ますことの無いアンジェにしては珍しいことだ。

――アンジェ。

 聞こえた懐かしい声に、アンジェは寝床から飛び起きた。すぐ傍に、メオンが座っている。伸ばした濃茶の髪を緩く纏め、優しげな笑みを浮かべた、アンジェの記憶にある通りの兄だ。

「兄さん……?」

――元気そうですね。安心しました。

 メオンが優しくアンジェの頭を撫でる。手の温かさも感触も、記憶と何ら変わらない。

 何かを言おうとするものの、言葉は喉で引っかかって出てこない。

“狂信者”だったとはいえ、アイラを襲ったとはいえ、アンジェにとってメオンはただ一人の大事な兄であることには変わりない。言いたいことも、聞きたいことも多いのだが、どうしても言葉にならない。

 そんなアンジェの様子を見て、メオンはふっと笑みを深めた。

――無理に話さなくてもいいのですよ。

 優しい兄の言葉に、思わず泣きそうになったアンジェは、それをごまかそうと兄に抱き着いた。

 すがってきた妹を、メオンは優しく抱きしめる。妹の髪を撫でながら。

「兄さん……兄、さん!」

――すみません。悲しませてしまいましたね。

 すまなげにそう呟いて、メオンは悲しげな表情を見せた。

 ひとしきりすすり泣いて、アンジェは顔を上げた。頬に流れる涙を、メオンの指がそっと拭う。

――アンジェ。聞いてください。

 メオンが不意にその表情を真剣なものに変えた。アンジェもそんな兄の様子を見て取って、形を改めて座りなおす。

 メオンが膝の上に重ねたアンジェの手を取り、しっかりと握る。

――いいですか。誰が何を言おうとも、我らにとってレヴィ・トーマは唯一にして絶対。そのことは、よく覚えておいてください。

「それは……兄さん、は……」

――何が言いたいのかはわかります。でも私は、自分が間違っているとは思っていない。レヴィ・トーマこそが神。その考えは、今でも変わりません。

 ずるりとメオンの両腕が落ちる。

 それを見て、喉の奥で声を立て、思わず勢いよく身を引いたアンジェの身体が、強く壁にぶつかった。鈍い音が響く。

――アンジェ。忘れないでください。あなたが共にいる人は、私を殺した人ですよ。

 最後にそう言い置いて、メオンの姿が現れたときと同じように、唐突に消え去った。兄の言葉を聞き、最期の姿を見て、アンジェの胸の奥底で、小さな火が燃え始めた。

 

 

 

 ヒシヤの家の奥には、広さにして十二畳ほどもある部屋がある。部屋の四分の一ほどは白木の祭壇が占有している。

 祭壇には太い蝋燭が三本立てられ、灯された火がゆらゆらと揺れている。

 部屋には香が焚かれているのか、甘い、一度吸えば身の奥深くまで染み込むような香りが漂っている。

 祭壇の前にはナナエが座り、低いくぐもった声で祈りの言葉を唱えている。

「大主様、儀式の手筈は整いました。形代の一人はほぼ手中に。今一人も、近く手中に落ちるでしょう。己の身も顧みず、人に手を差し伸べるような者ならば、そして全てを等しく受け入れる、円環の神の徒ならば、此度の式にふさわしい」

 ゆらゆらと炎が揺らぐ。ナナエの言葉に反応するかのように。

 ナナエは祝詞を唱えながら、じっと蝋燭を見つめていた。

 ジジ、と芯が焼ける音。蝋燭の炎が大きく伸び上がり、激しく揺れる。

「ええ。昨年のような間違いは起こしませぬ。この邸から一足たりとも出しはしませぬ。必ずや、御式をやり遂げてみせましょうぞ」

 再び蝋燭の火が大きく揺れる。

「大主様、今年も我らにお恵みを与えてくださいませ」

 祭壇の前で、ナナエは祈りを捧げながら深々と額づいた。

 

→ 消えた証