アイラと牧師

 姉妹が伯母と話をしていた頃、アイラは村の市を特に目的もなく歩き回っていた。他人の問題に首を突っ込む気はさらさらなく、また巻き込まれるのも面倒なので、こうして話し合いの場から離れたのだ。

 人々がにぎやかに行き交うのに混じって歩く。時々売り物を眺めることもあったが、基本的にはただ歩いていた。周囲に関心を払うこともなく。

 しかし、アイラがもっと周囲に注意を払っていたら、数人の噂好きでお喋り好きな婦人が、自分を好奇の目で見ながらひそひそと話をしているのに気付いただろう。

 彼女自身は知らなかったが、アイラは、トレスウェイトでずいぶん噂の種になっていた。彼女の愛想のなさ、日曜になっても教会に来ないこと、その他の小さなことが、村人の間で様々な噂や憶測を呼んでいた。

 特に、アイラが日曜にも教会に来ない、ということが、噂好きの人々の間では、最も大きな話題になっていた。

 トレスウェイトの村人達は皆、レヴィ・トーマの敬虔な信者であった。そして彼らにとって、日曜の礼拝は当然行くべきものであった。そして怪我でも病気でもないのに教会に顔を出さない者は、噂好きの人々にとっては、格好の獲物になるのだった。

「あんた、どうして教会に来ないんだい?」

 何となく立ち止まって布地を眺めていたアイラに、後ろから声がかかる。立っていたのはふっくらとした、それなりに身なりの良い女。

 この女は、名をジョセフィンといった。村人の中でも特に好奇心の強い方で、どんな秘密でも、自分が気になったことは、明らかにせずにおかないのだった。

 この婦人にかかれば、例え王様であっても秘密をすっかり話さずにいられないと、トレスウェイトの村人達は皮肉交じりに言い合っていた。

 別に他人の秘密を暴いたところで、彼女に何か利益があるわけではない。単純に、この年配の婦人にとっては、他人の秘密を知ることが面白いのだ。

 あの人はなぜ、決まった日にだけ外出するのだろう。なぜあの家のおかみさんは、いつも家の中に閉じこもっているのだろう。

 そのようなことを気にして、他人のことを知りたがる人間は、どこにでもいるものだが、このジョセフィン婦人は間違いなくその類の人間だった。

 そのために、ある者からは話が面白いというので好かれ、またある者からは、何でも根掘り葉掘り聞きたがるというのでやや敬遠されていた。

 アイラの顔が不快そうにしかめられる。

「……私はレヴィ・トーマを信じてない」

 ジョセフィンが大げさに息を呑む。

「レヴィ・トーマを信じていない!?」

 その声に、周りの人々の目が二人に向けられる。声高に囁き合う声が、アイラにも聞こえてきた。

 ジョセフィンが片手を持ち上げ、さっと斜めに下ろす。ちょうど、何かを払うように。

 それがレヴィ・トーマの信者が行う、災いを払う仕草だということは、アイラも知っていた。

「よくまあそんなことが言えたもんだ」

「なんて罰当たりなんだろう」

「恐ろしいことを言うやつだ」

 聞こえよがしに囁かれる言葉。アイラの顔に、次第に苛立ちが現れる。

(面倒なことになった)

 内心で舌打ち。さっさと立ち去りたかったが、目の前にジョセフィンが立ち塞がっている。

「何かあったのですか?」

 不意にかけられた声に、辺りのざわめきが途切れる。エヴァンズ牧師が人々の後ろに立っていた。

「牧師様、この人は、神を信じていないと言うのです。とんでもない人です」

 牧師に顔を向けていたアイラが、きっとジョセフィンに向き直る。

「神は信じている。だが私の信じる神はレヴィ・トーマではない。人の信仰に口を出すな」

 アイラの双眸で怒りが燃え上がる。

「人にはそれぞれに信仰があるものです。ある宗教が優れていて、別のものは劣っている。そんなことはないのですから、隣人の信仰が自分のものと違うからといって、無闇に騒ぎ立てるようなことは、するべきではありませんね」

 穏やかな牧師の言葉が、騒ぎを徐々に鎮める。怒りを爆発させる寸前だったアイラも、このためにちょっと毒気を抜かれた様子でその場に立っていた。

「確か、アイラさん、と仰いましたね。少し伺いたいことがありますので、家に来ていただいてもよろしいですか?」

「……ん、分かった」

 牧師館に着き、通されたのはエヴァンズ牧師が書斎として使っているらしい部屋。本棚には経典や図版、その他様々な種類の宗教にまつわる本が収められている。中にはレヴィ・トーマではない、他の宗教に関わる本もある。

 書き物机の上にも本や何かが書かれた紙が置かれている。それでも散らかっているという印象はない。むしろ整然としている。

 向い合って座る二人。

「アイラさん、あなたは、ハン族の方ですね?」

 アイラの顔に、少し警戒の色が浮かぶ。

「そうだけど」

「あなたは、“門”……“アルハリクの門”だと聞いていますが、本当ですか?」

 その言葉に、アイラの顔から血の気が引いた。エヴァンズ牧師は、彼女が卒倒するのではないかと、思わず腰を浮かせる。

 青白いアイラの顔の中で、目だけがぎらぎらと光って牧師を睨みつけている。

(なぜそれを知っている? 私は話していないのに。…………まさか)

「……メオンから、聞いたのか」

 無理に出しているかのような、低いアイラの声。

「メオン? いいえ、私はその人のことは知りません。どうか落ち着いてください」

 気付け用なのか、強い葡萄酒を一杯飲まされ、どうにかアイラは落ち着きを取り戻した。

「あなたのことは、この手紙で知りました」

 エヴァンズ牧師がアイラに渡したのは、あのランベルトからの手紙。読みにくい文字をどうにか読みとる。

 最後の『ランベルト』の署名を見た瞬間、アイラははっと目を見開いた。

(そうだ、あの聖職者、ランベルトというのだった)

「そのランベルトという聖職者は、私が大変お世話になった方なのですが、十四年前、ランズ・ハンに向かってからの消息が分からなくなっているのです。何かご存じではありませんか?」

「……この人は、確かに私達のところに来た。けれど……死んだ」

 エヴァンズ牧師にとっては、これは予想できた言葉だった。

「そうですか……。なぜ亡くなったのか、ご存じなら教えていただいてもよろしいですか?」

「……知っては、いるけど……」

 アイラの顔に、珍しくためらいの色が浮かぶ。この牧師には、おそらく酷な話になるだろう。

「どうか、話してください」

 牧師に促されても、アイラはまだしばらく口ごもっていた。ようやくぐっと唾を飲み、口を開く。

「“狂信者”に殺された」

 一息に言い切る。今度顔色を変えたのはエヴァンズ牧師の方だった。

「なぜ、あの人が……?」

 呆然とした様子で牧師が呟く。

「さあ。あのサ……狂った奴らの考えなど知るものか」

 サツグ、と言いかけたのを言い直しはしたが、それでもアイラの言葉には、嫌なものを吐き出すような調子が含まれていた。

「その、”狂信者”は、どうなったのですか?」

「……死んだ。ハン族の皆と、同じように」

 牧師はその言葉を聞いて、黙ったままアイラの顔をじっと眺めた。アイラも黙って目を逸らす。

 教会の鐘が、十五の刻を告げる。

「おや、もうこんな時間ですか。今日はありがとうございました」

 牧師に見送られ、アイラは雪がちらつく中を歩いて行く。それを見送ったエヴァンズ牧師は、アイラの姿が見えなくなると、書斎に戻り、レヴィ・トーマに祈りを捧げた。ランベルトのために。

 

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