アイラの休日

 木彫りをやめ、寝台に横になったアイラは、そのまましばらく天井を見つめていた。部屋の外が何だか騒がしいような気もするが、特に気にはならない。

(普通なら、気になるものだろうか?)

 首を捻って考えてみる。が、よく分からない。好奇心というものをほとんど感じたことのないアイラなのだ。好奇心だけではない。“まともな感覚”というものも、どうやら自分には欠けているようだと、アイラは薄々感じていた。

 ずっと昔、幼い頃はこんな風ではなかった。楽しければ笑い、悲しければ泣いた。暗闇に怯えたこともあった。けれどいつからか、喜ぶ、悲しむ、怖がる……そういった感情がどういうものか、いつ感じるのか分からなくなってしまった。木を削り、形を作ることは面白いと思うし、他から見下されると腹が立つというのに。

 自分はずっと、こうして生きていくのだろうか。冷え冷えとした気持ちを、心の中に抱えたままで。

 そのままうとうとし始めたとき、ドアがノックされる。

「……あい?」

「先ほどは、大変失礼しました」

 戸口で深々と頭を下げるメオン。一方のアイラは首を傾げてから、ああ、と頷く。

「怪我は、大丈夫ですか?」

「ん、深くはないし、薬も塗ったし」

「そうですか。良かったです。……あの、アイラさん。あなたの刺青には、何か意味があるのですか?」

 スカーフの下で、アイラは口元を引きつらせた。なぜ知っているのかと疑問が浮かび、さっき見られたことに思い至る。アイラはしばらく頭の中で言葉をあれこれ考え、ゆっくりと口に出した。

「“門の証”」

「“門の証”? 何です? それは」

「何、って……。証は証」

 不思議そうなメオンに対し、アイラはそれ以上言おうとしない。

「聞いてもいいですか? その、門、というのは何をするのです?」

「……なぜそんなことを聞く?」

「知りたがりの性分なのですよ、私は」

 メオンが声を上げて笑う。アイラはにこりともせず、代わりにそっと溜息を吐いた。軽く顔を上げ、天井を見つめる。

「『天の父なる御神が古に振いし武具を用いて民を導き、父なるアルハリクをその身に降ろす者を“門”とせよ。“門”は汝らが導き手なり。民は“門”を守り、“門”は民の砦となるべし。』」

 アイラがそらんじたのは、かつて彼女が学んだ聖句の一節。メオンは不思議そうにアイラの顔を見つめる。

「それは、巫、とでもいうのでしょうか?」

「さあ。私は“門”以外の呼び方は知らないから」

「そうなると、あなたの力もその“門”とやらのものですか?」

 アイラはメオンの言葉の意味を考え、頷いた。再びぼそぼそと、独り言のように言葉を綴る。

「『玉破は神の矢。射るべきを射、射ざるべきを射ず。断刀は神の太刀。その刃、理の内にあらざれば、理によりて受けること能わず。円盾は神の盾。“門”がそれを願うならば、いかなる強者の攻撃も、この守りを破ること能わず。』」

 これを聞いて、メオンの顔がしかめられる。それは何か考えているようにも、不快感を覚えているようにも見える。

 やがてメオンは立ち上がって一礼し、部屋を出て行った。ドアを閉める音を聞いて、アイラはごろりとベッドに横になる。

「父なるアルハリク、門の娘はあなたの期待に応えているでしょうか?」

 その問いかけに答える者は、誰もない。

「ru riu u ri u ua…………」

 しばらく経って、寝転んだままのアイラの口から、歌が零れ落ちる。意味の無い言葉が連なっただけのような、はっきりした歌詞のない、旋律だけの歌。やがてその歌は、だんだん小さくなって消えていった。

 そのまま眠っていたアイラが起きたのは、夜もずいぶん遅くなってからだった。欠伸を連発しながら起き上り、部屋を出る。

 外に出る。肌に夜風が心地良い。足と気の向くままに歩き回っていたアイラは、小さな教会の近くまで来て、ふと足を止めた。教会の中に、人目を忍ぶようにメオンが入って行くのが見えたのだ。

(祈りに行ったのか)

 アイラ自身は教会に用はないため、またふらりふらりと散歩を再開する。それでも何かあれば駆け付けられるように、宿は常に視界に入れておく。

(……何か忘れているような気がする)

 何を忘れているのかと考え、夕食を食べていないことを思い出した。寝過ごして食べそびれたのだ。別に空腹ではないから、どうでもいいと言えばどうでもいいのだが。それもまた、『ずれている』と言われる原因なのだろう。そもそも最後に空腹だと感じたのは、果たしていつのことだったか。

(食事を抜いたとタキが知ったら、怒るな、きっと)

 静かな夜を楽しみながら、またしばらく歩き回る。そしてようやく部屋に戻ろうという気になる。

 宿に戻ったアイラは、酔い潰れたクラウスを担いで食堂から出て来たライと、ばったり顔を合わせた。

「傷はどうだい」

「別に。大したことはない」

「ふうん。そりゃあ良かった」

 この言葉を聞いて、顔にこそ出さなかったものの、アイラは少しばかり驚いた。ライから見下されていると感じることは度々あったが、まさか気にかけられるとは思っても見なかったのだ。

 そんなことを思っている間に、ライは階段を登って行く。その足元は少々危なっかしい。彼も相当飲んでいるのだろう。あるいはクラウスに付き合っていたか、彼が付き合わせたのかも知れない。

 幸い、ライは転げ落ちることもなく、無事に階段を登り切った。それを見届けてから、アイラも二階へ上がり、自分の部屋へ向かう。

 部屋に入ったアイラは、きちんと閉めていたはずの荷物の口が開いているのに気付き、眉間にしわを寄せた。中を改めて見たが、特に何も盗られた様子はない。財布も無事だ。ざっと他の荷物も見たが、特に異常はなさそうだ。

(盗る前に逃げたかな。鍵はかけなかったし。まあいいか)

 あっさり考えるのをやめたアイラは、低いベッドにごろりと横たわって目を閉じた。

 

 

 

 翌日、盛大に寝過ごした、というより起きるのが億劫で、ベッドの上でごろごろしていたアイラは、昼近くなってようやく起き上がった。最低限身だしなみを整えて下に降りる。

 食堂に行くと、知っている顔と知らない顔が一対二位の割合で目に映る。一番近くの椅子に座ったアイラは、小さな丸パン一つとサラダ、シャル(芋と花野菜に、豆の粉と香辛料などを加えて揚げたもの)を頼んだ。

 やがて運ばれてきた丸パンには細かく刻んだバジルが混ぜられており、口に入れるとハーブの香りが花に抜ける。香辛料が使われているために濃い味だと感じたシャルも、その後にサラダを食べればさほど気にはならない。

 普段の一食の量よりも多い量の食事を平らげ、アイラは食器の乗ったトレイを返すと、自室へ戻った。腕の包帯を解き、怪我の様子を見る。傷は既に瘡蓋が残るだけだ。無理に動かさず、普段通りにしていれば、数日でこれも取れるだろう。

「入っていいか?」

 ノックと共に聞こえた声に、「開いている」と返す。程なくして、二日酔いのためか顔色の悪いクラウスが入って来た。

「悪かったな、アイラ。オレのことに巻き込んで……身内が酷いこと、言って」

「謝る人間が違う。クラウス・エレンゼではなく、マドレナ・エレンゼが謝るべきだ。勝手な思い込みで人を巻き込んで、挙句人の親を侮辱したのは、マドレナ・エレンゼなのだから」

 普段は口数の少ないアイラにしては珍しいことに、これだけの台詞を一息で言い切った。クラウスを見る灰色の瞳は、研ぎ澄まされた刃物のように冷たく光っている。それに気圧されたのか、クラウスがたじろぐ。

「…………そりゃそうだけど、オレの事情に巻き込んだのは事実だろ?」

「巻き込んできたのはマドレナだ」

「元々はオレの責任だ」

「クラウスの責任だとは思ってない」

「いやオレにも責任があるって」

「それでも私が謝って貰いたいのはクラウスじゃない」

 どこまでいっても平行線の言い合い。その内クラウスが諦めたように息を吐いた。

「……分かったよ。この話はここまでにしよう」

 頷くアイラ。しばらく黙った後で、「何の用?」と尋ねる。

「いや、謝りに来たんだけど」

 脱力するクラウス。それを見てアイラは首を傾げる。しばらくして、クラウスがにっと笑う。彼がしょっちゅう浮かべる、どこか遊び人にも見える笑み。

「はあ。何かどうでも良くなった。つーか、バカみたいじゃん、オレ」

「……クラウス」

 そのまま部屋を出て行こうとするクラウスを、アイラは呼び止めた。戸口でクラウスが振り返る。

「……切り通しに行く前、何を言おうとした?」

「えーっと……、あー、アレ? いや別に、大したことじゃねーけどさ……リーオのこと、後悔、してねーのか? って聞こうと思ってさ」

 覚えのある名前に、アイラは眉を吊り上げてみせた。

 リーオとは、かつてアイラやクラウスと共に仕事をしていた男の名である。まだ若い男だったが、金目当てに二人を裏切った上、エレンゼ家にクラウスの情報を流した。

 彼の行動が引き金となり、アイラとクラウスは死の淵を見た上、エレンゼ家の騒動に巻き込まれる羽目になった。

 リーオはもうこの世にいない。裏切ったとき、真っ先にアイラの手にかかった。

「……別に何とも思ってはいない。あれは『敵』だった。だから、殺した。それだけ」

 何の感情も浮かべずに、さらりと言うアイラ。クラウスの背筋に冷たいものが走る。アイラはやはり、どこかずれている。

「そっ、か。変なこと聞いてごめん。じゃーな」

「ん。……また、話に付き合うくらいは、する」

「ありがとな、アイラ」

 クラウスは一瞬驚きの表情を浮かべてからそれを笑みに変え、部屋を出て行った。