カチェンカ・ヴィラ(前編)

 朝になっても、柔らかな雨が降り続いていた。

 五人はそれぞれに雨避けの支度をし、小屋から出た。

 辺りに彼ら以外の人影はなく、後を付けて来る人影もない。とはいえ警戒を怠ることはなく、彼らは先へと進んでいた。

 今度はアイラが先に立ち、クラウスが殿を務める。

 草を踏みしだきながら進む五人の足は、雨と泥でひどく汚れていた。

 ちらりと後ろを振り返ったアイラの目に、緊張で顔を強張らせたネズの顔が目に入った。

 思えば、彼の立場はかなり微妙なものだ。

 アイラたちは、彼がリイシアを助けるために行動していることを知っている。しかしおそらくサウル族の方では、そんなことは知る由もないだろう。離反者だと思われているはずだ。加えてヤツトからすれば、ネズは立派な裏切り者だ。

 彼の居場所は、一体どこにあるというのだろう。

 雨音だけが聞こえている。誰も口をきく者はいなかった。

 空は暗い、厚い雲に覆われており、時間の経過を知るのは難しい。

 適当に時間を見計らい、休憩と昼食を兼ねて足を止める。

「後ろは、どう?」

「特に誰かが付いて来てる様子はねーな。諦めた訳じゃねーとは思うけどさ」

 アイラの問いにそう答えるクラウスは、既に朝方、夜中にあったことを彼女から聞いている。

 ヤツトはアイラの剣幕に逃げ去りはしたが、そもそもの計画を諦めてはいないだろう、というのが、二人の結論だった。

(離反者の側に、今何人いるのか分かればいいのだがな)

 胸の内で呟く。

 ノドの森で相対したのが、合わせて十一人。昨晩会ったのが、ヤツトも含めて三人。合計で十四人。

 ネズがいたときには自身とヤツトを含めて十一人だったらしいが、その後も何人か引き込んだらしいから、増えているのはおそらくその分なのだろう。

 一応ネズにも聞いてみたが、当然ながら彼にも分からない。

 それでも、そう大勢はいないだろう、というのが彼の意見だった。

 サウル族の中で、ユートに不満がある者は多いだろう。しかし、その不満の矛先を、娘のリイシアに向けるのはおかしいと、考える者が大半だから、と。

 ちらりとリイシアを見ると、少女の顔は、何故だか沈んでいるように見えた。

『カチェンカ・ヴィラはもうすぐだ。疲れたか?』

 そう声をかけると、リイシアは首を横に振る。少し首を傾げたものの、アイラは特に追及もしなかった。

 休憩を終え、再び歩き出す。

 木々の間隔がまばらになってきた。やがて木がなくなり、滑らかな石で舗装された地面が一行の目の前に現れる。

 雨に濡れた街道に出て、先へ進む。

 辺りが薄暗くなってきた頃、五人はとうとうカチェンカ・ヴィラに辿り付いた。

 ネズに場所を聞きながら、サウル族が野営しているはずの、郊外の野営地に足を向ける。

 野営地には、椀を伏せたような、簡易なテントが並んでいる。

「あそこでいいのか?」

「ええ」

 立ち並ぶテントの間を縫って進む五人。彼らを――特に、リイシアを――見て、ざわめきがさざ波のように広がる。

「えーっと、長はどこにいるんだ?」

「ユートなら――」

 クラウスに答えかけたネズの声が、途中で途切れる。

 男が一人、五人に近付いて来ていた。その様子を、辺りにいたサウル族の男女が遠巻きに見守っている。

 よく日に焼けた褐色の肌をした男は、金褐色の髪に赤や青、黄色といった様々な色の樹脂玉を編み込んで纏めている。

 額にサウル族を示す紋様を入れた男の目は、真っ直ぐに五人を睨んでいる。

 彼の顔は、目元や目尻の黒子から鼻筋、口元に至るまでリイシアと似通っていたが、目に宿る、暗い怒りの色は、リイシアが見せたことのないものだった。

 ずかずかと近付いた男は、ネズを乱暴に押し退けた。よろめくネズを見もせずに、腕を掴んでリイシアをアンジェから引き剥がす。

『掟を忘れたのか。ロウクルと関わるなと言ったはずだ!』

 蒼白になったリイシアに向かって、男の手が高々と振り上げられる。

 誰もそれを止めることができず、リイシアが打たれるかと見えたそのとき、別の声がその場に響き渡った。

『ハン族の長、ヤノスが娘、“アルハリクの門”のアイラが、サウル族の長、ユート殿にご挨拶を申し上げたい!』

 全員が、何事かとアイラを見る。アイラは素早くスカーフを外し、“門の証”が見えるようにと首元を広げた。

 ざわめきが広がる。ユートは一喝してそれを静めると、不審を顔に表してアイラに問うた。

『お前が“門”だと? ハン族の“門”はもっと年配の女だったはずだ』

 アイラは眉一つ動かさず、平然と答えを返す。

『あなたが言っているのは私の叔母だ。あの人は既に役目を終えた。今は私が“門”となっている』

『で、その“門”が何の用だ』

 じろりと自分を見下ろすユートに、アイラはかすかに笑みらしきものを浮かべて見せた。

『用は二つ。一つはさっきも言った通り、挨拶に。もう一つは……少しばかり、意見したいことがあってね』

『意見?』

 ユートが渋面を作る。その様子を見ていたネズは、腹の底が冷えるような感覚を味わっていたが、アイラは凛とした佇まいのまま、ユートを見上げていた。その顔は平静そのもので、周りの人間が浮かべている、不安や恐れの色は一欠片もなかった。

 アイラにとっては、目の前に立つユートの目よりも、記憶の中の、アルハリクの従者の目つきの方が、余程恐ろしかった。

『無論、他の部族の掟ややり方に、口を挟むべきではないことは理解している。だが、一言も訳を聞こうとせず、短絡的に罰するのは、如何なものかと思うのだが?』

『口出しは無用。これは我らの掟に関わる問題だ。我らのやり方で扱わせてもらう』

 アイラは内心舌打ちしたものの、それを露骨に表情に出しはしなかった。

 不意に、アイラの顔が、険しいものへと変わる。

 ふわりとアイラの身体が動き、打音が一度。次の瞬間には、アイラの足元に、それまではなかったナイフが落ちていた。その刃先をリイシアに向けて。

 それに気付き、背後で傍観に徹していたクラウスも、さっと背に負う剣に手をかける。その横で、アンジェも杖を握り締めた。

 アイラは左袖を捲り上げ、文字が絡み合ったような、“門の証”を露わにした。ナイフが飛んできた方向へ手を向け、神の矢を放つ。

 それとほぼ同時に、人影が一つ、テントの陰から飛び出してくる。

 憎しみに顔を歪ませていたが、その人影はヤツトに違いなかった。

 ぎらりと、ヤツトの手に握られた短剣が光った。狙いは、リイシア。

「リイシア!」

 叫び声が聞こえても、少女は、動けなかった。剥き出しの殺意を向けられて、恐怖で足が竦んでいた。

「何をしているんですか!」

 その言葉が聞こえたと同時に、思い切り突き飛ばされる。リイシアの目の前には、ネズが、少女に背を向けて立っていた。

 真っ直ぐに、殺意の籠もるヤツトの瞳に射すくめられ、ネズの顔から色が失せる。

 それでも彼は、その場所を退こうとはしなかった。

 構えられた短剣は、ネズの左胸に向けられている。今にも突き刺さるかと思われたときだった。

「円盾」

 二人の間に、小柄な影が割り込む。その口から言葉が零れると同時に、水平に構えられた右腕に、白く輝く盾が現れた。

 短剣と盾がぶつかり合い、高い音を立てる。

 渾身の力を込めて短剣を弾き上げたアイラは、再びヤツトと相対した。