クレインの宿
ユレリウス北部から西部へ抜ける峠を越えた先の街道には、粗末な小屋が点在している。峠を越える、あるいは越えた旅人が泊まるための小屋だ。
アイラもそんな小屋の一軒に落ち着いていた。既に外は暗く、少し前から雨音が聞こえてきている。あまり、ひどくならなければいいが。
小屋の中も見た目と同じように粗末だ。低いベッドと小さな丸いテーブル、天井から吊り下げられたランプ、そして小さな暖炉がある。一隅には桶や薪など、必要な物が積まれている。
暖炉に火を入れ、ついでにランプに灯りをともす。春になったとはいえ、まだ火は必要だ。
夕食にリウから貰った保存食でも食べようかと袋を開いたアイラは、中に入っていたものを見て思わず目を丸くした。
燻製にした肉や干し芋、グラン(数種類の穀物や木の実、刻んだ干し果物に糖蜜を絡めて固めたもの)の包みに混じって、細い紐で留められた三枚の金貨が入っていたからだ。アイラがリウに渡したものに間違いない。
『預かっとくわ』
『保存食と、大事なもの』
金貨を渡したときと、この袋を渡してきたときの、リウの言葉を思い出す。大事なもの、とはこのことか。
(返さなくて良かったのに)
こうして返してきたのはリウらしい。返さずに、自分達のものにすることもできたのだ。例えそうしていても、アイラは何とも思わなかっただろうし、何も言わなかっただろう。元々、そのつもりで渡したのだから。
金貨を財布にしまってから、燻製肉とグランの包みを取り出し、まずは肉を一口かじる。独特の煙の匂いが鼻に抜けた。グランの方は、あちこち動き回るアイラを気遣ってか、疲れを取ると言われる数種類の木の実が多めに入っている。
(二人には、感謝しないとな)
半分ほど残して包み直し、背嚢にしまう。テーブルに登り、更に背伸びをしてランプを外し、火を吹き消す。こうしないと手が届かないのだ。いつもは何とも思わないが、こういったときは自分の背の低さが少し恨めしいように思える。
寝ている間に火事にならぬよう、暖炉の火もきちんと始末をして、アイラは固いベッドに身体を横たえた。厚めの掛け布団を肩まで被せて目を閉じる。
聞こえる雨音が遠くなり、いつしかアイラは静かな寝息を立てていた。
朝になっても雨は降り止まない。外から聞こえる雨音でそのことを知る。
(まあ、そう上手くいくことばかりじゃない)
燻製肉で簡単に朝食を摂ったアイラは、荷物から雨のときに羽織るフード付きのマントを引っ張り出した。
しばらくして、雨が弱まった頃、アイラの小柄な姿が小屋から現れた。きっちりと戸締まりをし、雨の街道を進んで行く。
ぴしゃり、ぴしゃりと泥混じりの水が跳ねる。跳ねがかかったズボンの裾は、もうすっかり濡れている。
雨が少しずつ大粒になっていく。それと共に激しさも増して。
アイラが羽織っているのは雨用のマントとはいえ、じわじわと裏にも雨水が染み込んできた。少し足を速める。それでもこの先の町、クレインに着くのは、昼を過ぎてからになるだろう。
(休んでいても良かったかな)
そんな考えも浮かんだが、小屋を出てすぐならばともかく、今になって引き返すのは面倒だ。それに、進むにせよ戻るにせよ結局は今より濡れてしまう。
アイラは更に足を急がせて、街道を先へと進んでいく。肌寒さと、触れるマントの冷たさが、アイラにあの巡礼地を思い出させた。
軽く頭を振って記憶を追い払う。思い出したところで、取り返しはつかない。
雨の中を歩き通したアイラは、予想通り昼を過ぎた頃にようやくクレインに辿り着いた。運良く出会った町人に宿の場所を尋ねる。幸い、宿屋はアイラが入って来た大門の目と鼻の先にあった。
「いらっしゃいませ。御用は何でしょうか?」
「……夕食と泊まり」
「かしこまりました。どうぞ、中に入って暖まってください。マントもそこにかけて乾かせます」
主人の言葉に従い、アイラは濡れたマントを脱いで壁の釘にかけ、自身も暖炉の傍に腰掛けた。燃え盛る火に両手をかざす。
しばらく暖まると、冷え切っていた指先にもどうやら感覚が戻ってきた。
「どちらからいらっしゃいましたか?」
「……北から」
「左様でございますか。この冬は例年より厳しいだろうという話が出ていましたが、いかがでした。やはり厳しかったですか」
「……まあ、それなりには」
適当に答えつつ、ある程度乾いたマントを畳む。客は少ない。今広間にいるのはアイラの他に四、五人程度。
最も、まだ春になったばかり、しかもこれから春の長雨の時期に入るのだから無理もないだろう。長雨の時期が終われは、客も増えるはずだ。
部屋に引き上げ、ごろりとベッドに寝転がる。
明日の朝早くにクレインを出れば、夕方か、夜にはウーロに着く。どこにも泊まらなければ、の話だが。
(途中どこかで泊まれば、ウーロにつくのは明後日の朝か……昼前、くらいか)
少し考え、泊まってからの方が良いだろうと結論を出す。養い親の家とは言え、夜になってから押しかけるほどアイラは非常識ではない。
(タキは、どうしてるかな)
ぼんやりと、そんなことを考える。
しばらくベッドの上で天井を眺める。そうするうちにも時間は過ぎていく。
部屋の時計が二の刻を示す。この時間になって、ようやく昼食を取っていないことを思い出したアイラは、荷物からグランの包みを取り出し、一つだけかじった。
グランを食べ終えると、アイラはナイフと木切れを取り出して、慣れた手つきで削り始めた。
しばらく黙々と木を削り、一羽の小鳥を彫ったところでアイラは木彫りをやめ、部屋にある小さな暖炉に、焚き付け代わりに木屑を放り込んで火をつけた。
火が少しずつ木屑をなめて大きくなる。アイラは時々そだをくべ、火が消えぬよう気を付けていた。
夕食は春野菜を使ったパスタサラダとチキンソテー。パスタサラダというものを初めて食べたアイラだったが、普通のパスタとの違いはよく分からなかった。
チキンソテーの方はやや味が濃い。それでも出された料理はきっちりと平らげる。
少し部屋で休んでから、宿の裏手にある湯殿へ向かう。時間が早いせいか、アイラ以外の人影はない。
さっさと服を脱いで湯に浸かり、ゆっくりと手足を伸ばす。
じんわりと全身が暖まる。満足げな吐息を一つ漏らしたアイラは、一旦湯船から出た。ひんやりとした外気に、思わず小さく身体を震わせる。
鏡に映るアイラの身体は、相変わらず痩せている。あまり女性的ではない体型のせいもあって、遠目には少年のようにも見える。
左腕と首元の刺青の他に、所々傷跡が薄く残っている。古いものもあれば、まだ新しいものもある。
身体と髪を洗い終えたアイラは、再び湯船に身体を沈めた。今のように仕事のないときでなければ、中々こうしてゆっくりと湯にはつかれない。
人の話し声。脱衣所の方に数人の人影を認めたアイラは、そろそろ風呂からあがることにした。
服を着替え、髪の水気を取って部屋に戻る。軽くアルハリクに祈ってから、アイラはベッドに入った。疲れていたのか、目を閉じるとすぐに眠りはやってきた。
→ 帰宅