ネズの決意
ぎしりとベッドが軋む音に、ネズはふと目を覚ました。
寝惚け眼で音のした方を見ると、クラウスが起き上がっていた。
もう夜は明けているらしく、部屋の中は明るくなっている。
「あ、悪い。起こしたか?」
身体を起こしかけたネズに気付いたらしく、クラウスがすまなげな顔を見せた。
「いえ、気にしないでください」
そろそろ起きるつもりでしたので、と続けると、クラウスはそうか、と呟いた。
「アイラさんとは、親しいんですか?」
ふと思ったことを尋ねてみると、クラウスは、うーん、と言いつつ首を捻る。
「オレ? さあ、どうだろうな。顔見知りではあるけどさ、親しいってわけでもない気がする」
「でも、一緒に仕事をしているんですよね」
「今はな。この仕事が終わったら、また別れるよ。オレもアイツも、その時々で組む相手が変わるからな」
「そう、なんですか」
「どーしたよ。何か心配事か?」
クラウスの問いに、ネズは曖昧な笑みを浮かべた。
「そういう訳でもないですけど。ずいぶんお二人の仲が良さそうでしたから」
「そうか? 別に仲がいいってわけでもねーんだけどな。ほら、アイラって変わり者だし」
最もな人物評を聞き、ネズは思わず小さく噴き出した。
「でも、アイラは頼りになるヤツだよ。味方になればさ。でもアイツ、敵には容赦ねーからな。敵だと判断したら、それが誰でもためらわねーよ。いくら積まれても、オレはアイツの敵にだけはなりたかねーな」
以前、岩屋で向けられた視線を思い出し、ネズは同意の意味を込めて頷いた。
あのとき、女が入って来ていなければ、アイラは間違いなく、ネズに向けて神の矢を放っていただろう。一切、躊躇することなく。
「それより、だ。アンタ、嬢さんをカチェンカ・ヴィラまで連れてった後、どーすんだ? サウル族に戻んのか?」
「いえ……おそらく、もう戻れないと思います。長も、許しはしないでしょうし。それに、僕はリイシアが無事に戻ったら、今回の責任を取るつもりでいます」
ネズはきっぱりと言い切った。クラウスが一瞬目を丸くした。次いで眉を寄せる。
「……死ぬ気か?」
「それが必要なら」
「オレは良いとは思わねーけどな。その考え方。アンタ一人が責められることじゃねーと思うし。でも、ま、好きにすりゃいいんじゃね? オレがどうこう言える問題じゃねーよ。人の気持ちについてはな」
カチャカチャと手を動かしながら、クラウスが言葉を返す。
「じゃ、オレはちょっと身体動かしてくるよ」
そう言い置いて、クラウスは部屋を出て行った。一人残されたネズは、身支度を整えると、荷物の中から、小さな包みを取り出した。
細長い、ネズの手と同じくらいの長さの包みを開くと、中から細い短刀が転がり出た。小さく手を震わせつつ、鞘から刃を抜く。
光を受けた刃は、鏡のようにネズの顔を映し出す。血の気の引いた、青白い顔を。
ネズは小さな溜息を漏らし、短刀を元のように包んでしまいこんだ。
必要ならば、とクラウスには言ったが、全てが終われば、ネズはこれを使うつもりだった。サウル族に戻ることができるとは思えず、さりとて他に身を寄せるような場所もない。
それに、リイシアを危険な目に合わせてしまった。この償いはするべきだ。
いつもの、落ち着いた笑みの底に決意を隠して、ネズは出発の準備を整えていた。
宿の裏庭で、クラウスは剣を振るっていた。そこへ、軽い足音と共にアイラがやって来る。
普段から細い目が、今は更に細い。
「何だ。もう起きたのか。嬢さんはどうしてる?」
「アンジェと朝食を食べに行ったよ」
あそこ、と示す先には、アンジェとリイシアが仲良くカルウを食べている。
「ならちょうどいいや。軽く一戦、どうだ?」
剣を示すと、アイラは小さく頷いて、肩幅程度に足を開いた。
クラウスもにやりと口元を歪ませ、鞘に入れたままの剣を構える。
ざ、とアイラが一歩距離を詰める。クラウスの方は動かずに、剣先をアイラの胸元へ向けた。
円を描くように動きながら、二人は互いの動きを探る。
辺りには、張り詰めた緊張感が漂っていた。ほんの僅かな刺激でも与えられれば、今の均衡は崩れ去るだろう。
地を蹴ったアイラが距離を詰めると同時に、クラウスが後退しながら剣を横に振る。
剣先がアイラの胸をかすめた。ぱっと飛び退ったアイラは、すでに呼吸をやや乱している。
まだ、身体の方は本調子ではないのだ。
「キツイんなら、やめるぜ?」
「……まだ、動ける」
きっと灰色の目でアイラがクラウスを見据える。息は乱れていても、その目は闘鶏に出る鶏のように、きつい光を宿していた。
再び、先のように円を描きながら、互いの間合いを測る二人。
距離から言えば、剣を持つクラウスが有利だ。アイラがクラウスに一撃浴びせるためには、まず彼の剣を避けた上で、懐に入らなければならないのだから。
アイラが左に動けば、それに合わせてクラウスも右に動く。剣の先を、アイラに向けたまま。
不意に何を思ったか、クラウスが剣先を後ろに下げる。左半身を無防備に晒し、さも向かって来いと言わんばかりに。
しかしアイラは先刻のように突っ込むことはせず、じっとクラウスに視線を注ぎながらじりじりと距離を詰めて行く。
クラウスの方も、アイラの一挙手一投足を真剣に見ている。彼もまた、測っているのだ。
転瞬、ふ、と短く息を吐き、アイラが地面を強く蹴ってクラウスに肉薄する。それと同時に、鋭い音を立てて剣が振られた。
ぴたりと二人の動きが止まる。クラウスの剣はアイラの腰の真横で止まり、アイラはアイラで握り拳をクラウスの胸元へ伸ばしている。が、胸元までは僅かに遠い。
ふうっと大きく息を吐いて、どちらからともなく距離を取る。
「だいぶ調子が戻って来たんじゃねーの?」
「そう、だな」
と、息を切らしながら答えるアイラ。
「大丈夫か?」
「……少し休めば、何とか」
地面に腰を下ろし、ゆっくりと呼吸を整える。
「あー、そうだ。ネズのことだけどさ。気をつけたほうがいいぞ」
クラウスの言葉に、アイラの表情がぱっと変わった。驚きと、納得とが混ざったような表情。
「具体的には?」
「死ぬ気だよ、アイツ」
低く囁かれた言葉を聞いて、アイラの表情から納得の色が抜け落ちた。
「……確か?」
「本人は必要ならっつってたけどさ、多分本気だろーよ、あの目は」
「……ったく」
ぐしゃりと灰色の髪をかき回す。
「もうサウル族に戻れねーだろうからってさ。なー、アイラ。リイシアの嬢さんはともかく、ネズが戻んのはほんとに無理なのか?」
「無理だろうな。話を聞く限り、ユートが許すとは思えない」
「はー、面倒なんだな。少数民族ってのも。……こっちが手助けすんのもダメか?」
「戻れるように? そりゃ、無理だよ。むしろ余計に拗れる」
「いや、そっちじゃなくて。別の場所で暮らせるようにさ。ネズに行くとこあるなら別だけど」
「それは本人の気持ち次第だろうな。……死にたがりが、素直に助けに応じるとも思えないが」
聞いているのかいないのか、生返事をしながら、眉間に深くしわを寄せ、何か考え込むクラウスを尻目に、アイラは朝食を食べに宿の中へ戻った。
→ 傷付く者は