マドとの対立

 北部の猛烈な吹雪は十日間続いた。今日になってようやく青空が覗く。積もった雪は固く凍り付き、上を歩いても足跡が付かないほどになっている。

 朝食を終えると、三人は久しぶりに村の市場へと出かけた。

 市場を回ってパンや卵、肉や家では作っていない野菜を買い込む。その後アイラは一旦二人と離れ、市場をあちこち見て回っていた。特に買うものがあるわけではないが、こういった場所は、ただ見ているだけでも楽しいものだ。

「あ、いたいた。おーい!」

 声を掛けられて振り返る。そこには見覚えのある、金髪に緑の目の青年が立っていた。

「……誰?」

「オレ? オレはルーク。っと、それよりアイラってあんただろ?」

「……そうだけど。何の用?」

「あんたに手紙だよ」

 つっと目の前に封筒が差し出される。それを受け取って裏返し、差出人を確認する。

 二行に分けて書かれた住所の下、『タキ』と書かれた黒い文字が、アイラの目に飛び込んで来る。心臓が妙な具合に跳ねた。

「どうも」

「いやいや――」

 ルークの言葉が、不意に辺りに響いた悲鳴にかき消される。それを皮切りに、辺りには困惑に満ちたざわめきが広がる。

 そのざわめきを抑えて、一際大きな叫び声が響く。

「グリーズだ!」

 それが引き金だった。あっと言う間に、アイラの周囲は恐怖と混乱に包まれる。

 グリーズはユレリウス北部に生息する獣の中で、最も危険だと言われる獣である。熊の仲間ではあるが、普通の熊よりも二回りは大きい。短剣のような長い牙と赤い目を持ち、巨体でありながらその動きはかなり素早く、力も強い。その上知能も高く、相手にするには非常に厄介な獣であった。

 しかし本来なら、冬眠しているはずのグリーズが、なぜ活動しているのだろうか。

 小柄なアイラは度々押し潰されそうになりながら、どうにかこの場所から抜け出した。

 人混みを抜けたアイラの目の前には、多くの屋台が集まる、少し開けた場所がある。彼女も少し前に通り過ぎた場所だ。

 地面には溶けかけた雪と、血が混ざり合い、広がっている。そこに数人が倒れており、一頭の獣が鼻面と前足から血を滴らせていた。人混みを抜けたはいいが、どうやら来ない方が良い場所に出てしまったらしい。

 とりあえずグリーズに見つかるまいと、手近な物陰に隠れて様子を伺う。

 今しもアイラの眼前では、黒髪を右側でまとめた娘に、獣の爪が降り下ろされようとしていた。

(ミウ!?)

 次の瞬間、アイラは手元にあった林檎を引っ掴み、隠れ場所から飛び出した。こちらに背を向けているグリーズに向かって林檎を投げ付ける。

 林檎は見事にグリーズの後頭部に当たる。突如頭に衝撃を受けたグリーズは、ミウから注意を逸らし、後ろへ向き直る。

「来なよ、デカブツ。相手はこっちだ」

 グリーズが低く唸りながら、少しずつ距離を詰めてくる。アイラは左腕を突き出し、袖を捲り上げた。腕に入れられた黒い刺青が露わになる。

「玉破!」

 獣の頭部に狙いを定め、玉破を打つ。白く光る球は、まっすぐにグリーズの頭に向かって飛ぶ。

 しかしグリーズは唸りながら、玉破を右の前足で払い除けようとした。痛みと怒りに満ちた咆哮が辺りに響く。

 グリーズの、鋭い爪を備えた右前足は、アイラの打った玉破に吹き飛ばされていた。

 予想外のことに、アイラは思わず呆気にとられた。彼女としては、さっさと頭を吹き飛ばすつもりだったのだ。下手に怪我を負わせるより、早く終わらせた方がいいと考えて。

 怒れる獣はアイラに一撃を加えんと、残る左の前足を降り下ろす。

 それに気付いたアイラは左腕を構えながら前足を避けた。前足が降り下ろされると同時に、もう一度玉破を打つ。

 今度こそ、玉破はグリーズの頭部を吹き飛ばした。巨体の獣はどうと地面に倒れる。右前足と首から流れる血が、雪に染み込み、白を赤へと変えていく。

 辺りは水を打ったようになっていた。しかしアイラは周囲の静けさも、自身がグリーズの血を浴びていることも気にせず、広場を横切る。

「怪我は?」

「え? うん、大丈夫。アイラこそ、大丈夫なの?」

「私の血じゃないから」

 アイラはくるりと踵を返し、広場に倒れている村人の様子を見に行った。倒れているのは七人で、そのうち二人はもう息が絶えていた。残る五人は、かなり怪我が酷かったが、まだ生きている。

「何をすればいい?」

 いつしか、ルークがアイラの傍に立っていた。

「……医者と牧師を呼んで。それと、止血に綿の布がいる」

「分かった」

 ルークが駆け去る。やがて怪我人は皆、アイラや他の村人の手で応急手当を施され、まだ息のある者は医者の家に運ばれた。

 そして死者が教会へ運ばれていった後、息を切らし、服を乱した八人の見慣れない男達が姿を見せた。彼らは手に石弓を持ち、腰には大振りの短剣を下げ、毛皮の服を着ている。

 彼らは北部でマドと呼ばれる猟師の一団であった。マドは十人前後で一団となり、グリーズやデア(固く鋭い角と短い牙を持つ鹿の仲間)といった、普通の猟師が相手にしない危険な獣を専門に狩る。そのためか、彼らは大抵排他的で非常にプライドが高く、獲物を他人に奪われることを嫌う。

 中の一人、半白の髪をした、右の頬に大きな傷跡のある男が、横たわるグリーズの死体を指して口を開く。

「誰がこいつを殺したのかね」

「……私だが?」

 アイラが一歩進み出る。男の目が初めは見開かれ、すぐに疑わしげな目の色に変わった。

「お前が? まさか。お前ではなかろう。男とはいえお前のような子供が、どうしてこいつを殺せるものか」

 アイラの灰色の目に、冷ややかな光が灯る。

「……私は女だし、六年前に成人済みだ」

「ならお前は嘘をついているのだろう。女にこいつが殺せる訳はない。ましてこのグリーズは、冬眠できずに狂暴になり、何人もの人間を食い殺したやつだ。お前に殺せるはずはない」

「……疑うなら、その辺の人に聞いてみるといい。誰がこの獣を殺したか」

 アイラの言葉を受けて、マドの一団は村人達に話を聞き始めた。当然、村人はアイラの言葉を肯定する。こうしてようやくマド達は、アイラの言葉が真実だと知ったらしい。

 傷跡の男が、アイラを上から下までじろりと眺める。

「どうやらお前の言葉は本当らしい。だがこいつは我らの獲物だったのだ。なぜマドでないお前が、我らの獲物に手を出したのだ」

「……それならあんた達が来るまで、手を出さずにじっとしていれば良かったとでも?」

「そうだ。お前はそうすべきだったのだ。マドでもなく、その上女のお前が、我らマドの獲物に手を出すなど、言語道断だ」

「……下らない。貴様らの事情など、知ったことか」

 アイラの口調が荒く、声もまた低くなる。マドの一団が、怒りのこもった目を彼女に向けた。アイラもまた、石のように冷たい瞳で彼らを見返す。

「人を襲っていた獣を殺して何が悪い。私が見たとき、この獣はもう二人を殺していた。誰かが止めなければ、もっと殺していただろう。……獲物を取られるのが嫌だというなら、これは自分達の獲物ですと、札でも付けておけばいいんだ」

 嘲り混じりにアイラが語る。傷跡の男が譴責の視線を向けるが、彼女はそれを受け流した。

「マドの狩りの邪魔をしたお前には、いずれ罰があたるだろう」

 男が重々しい口調で言い捨てる。

「ふん。……己の不始末を棚に上げた上に、他人を呪うような奴の言葉を、果たして神が聞き入れるかね」

 渋面を作った男は、他のマドと共にグリーズの死体を粗末なそりに乗せ、血の跡を残しながら去って行った。