ヤスノ峠を越えて

 アイラは大きく飛び退り、その灰褐色のものを真正面から見た。姿形は犬か狼に似ていたが、それより少なくとも二回りは大きい。獣は目を血走らせ、まなじりを裂けんばかりにつり上げて、鋭い牙の並ぶ口から、血の混じる泡を零している。身体にはいくつか、肉が見えるほどの傷があった。

(何だ、獣か)

 隊商が遠ざかる音を聞き、獣と睨み合いながら、アイラは至極冷静にそんなことを思っていた。この獣が魔物かどうか、彼女には分からない。しかし魔物であろうがなかろうが、今自分がすることは一つ。

 獣が頭を下げ、アイラに向かって唸る。アイラが左腕を突き出すと、掌に淡く光を発する球が現れた。見る間に球は輝きを増し、白く輝く玉となる。

「玉破」

 一発目の白球は獣を吹き飛ばし、背後の木にまともに叩き付ける。ギャン、と悲鳴。血塗れの獣は再び低く唸りながら、アイラの喉元目掛けて躍りかかった。その頭に向けて、二発目の玉破を打ち込む。

 すると驚いたことに、獣は頭を巡らせて、器用に玉破を避けた。思わず舌打ちを漏らす。

(ただの獣でもない、か)

 玉破は威力を変えられるのだから、一発目で仕留めておけば良かった、と後悔する。

 獣は血の泡を吐き散らし、頭からも血を流しながらアイラに迫る。咆哮で空気が震える。耳が痛い。

 躍りかかる獣。鉤のように曲がった爪がマントを裂く。

(玉破は正面からじゃ避けられる。横に回り込めれば何とかなる、かな)

 アイラは突然獣に背を向け、道を外れると木々の中へと駆け込んだ。即座に獣が追ってくる。

 瞬く間に距離が詰まるのが、目で見なくとも察せられる。

 不意にアイラの背筋に、氷を入れられたような寒気が走った。考えるより早く、アイラは思い切り地面を蹴って、傍の下生えの中に飛び込んだ。アイラに飛びかかろうとしていた獣はそのまま、一瞬前までアイラがいた位置に立つ。

 その隙を逃さず、アイラは獣の横腹に狙いを定めて玉破を撃った。獣は再び木に叩き付けられる。

「玉破」

 それまでよりも威力を高めて放った玉破は、今度こそ獣の頭部を完全に消し飛ばした。その余波で、ちょうど獣の頭があった部分がぽっかりと抉れている。

 しばし獣の躯を眺め、アイラはそれに向かって祈りを捧げた。埋葬も何もできない代わりに、と。

 祈っていると、どこからともなく突き刺すような視線を感じた。祈りを終えて、辺りの気配を探ってみたが、何かがいる様子はない。気配を消しているのだろうか。

 十分程、その場に佇んでいたアイラだが、視線の主が現れる様子はない。

(気のせい?)

 すっきりしないものを抱えたまま、アイラは峠を下っていく。

 二つの隊商は、峠を越えた少し先に止まっていた。アイラが姿を見せると、誰よりも先にリュナが飛びついてきた。手にはニニを握っている。周りの人も、わっとアイラの元に集まりだす。

「さあ、進もう。話は峠を越えてからやることだ」

 ヴァルの一声に、アイラの元に駆け寄ろうとしていた人々は足を止め、それぞれの場所に戻り出す。アイラもリュナの肩を押さえていた手を離し、戻るようにと促した。

 夜、野宿の場所が決まり、天幕が張られると、周りから向けられる視線にうんざりしかかっていたアイラは服の繕いを口実に、さっさと天幕に入った。

 調べてみると、マントだけでなく上衣にも裂け目ができていた。普通の服の繕いならばともかく、羊毛をそのまま織ったような布地を上手く繕えるだろうか。

(まあ、目立たなくなればいいか)

 とりあえず穴を塞ぐように羊毛を引っ張りながら、適当に縫っていく。

 外は賑やかだ。メオンに妹がいる話や、あの獣についての話が聞こえてくる。

 あの獣が魔物だったかどうか、アイラには分からない。以前見た魔物は、どう見ても異形だった。まるで様々な獣の部位を適当に寄せ集めたような。しかしアイラが知らないだけで、獣そっくりの魔物もいるのかもしれない。

 (何にしても、一番厄介なところは通り過ぎた)

 ふと寒さを感じて天幕から顔を出すと、外では雪が降っている。何となく手を伸ばすと、落ちてきた一片が手に触れて溶ける。

 あまり雪に馴染みのないアイラには、それだけでも十分珍しいことに思えた。しかし寒いので、早々に中に引っ込み、服の繕いを再開する。

 ようやく繕いが終わった頃には、外で聞こえていた話し声は止んでいた。裁縫で凝った肩をゆっくり回してほぐし、上衣を着て外に出る。

「よ、アイラ」

 天幕を出てすぐ、クラウスと鉢合わせる。メオンとライも、少し離れたところにある焚き火を囲んでいる。

 冷たい手を火にかざす。

「大丈夫ですか、アイラさん?」

「……ああ」

「結局、ありゃ何だったんだ? やっぱり魔物か?」

「さあね」

 しばしの沈黙。アイラは手近な枝を拾うとナイフで先を削り始めた。先を尖らせ、懐から出した干し肉を刺して焚き火で炙る。

「私は、あれは魔物ではないと思いますね」

 メオンにクラウスとライが視線を向ける。アイラも肉を頬張りながら、彼に目を向けた。一気に注目を集めたメオンが、まるで教師が生徒に対して説明するような口調で話し出す。

「そもそも、魔物と通常の獣との違いは何か、と問われた場合、普通の人であれば、その生態の違いを例に挙げるでしょう。しかしそれは正しいとは言えません。魔物は人であれば住むことが、いえ、そもそもいることすら難しいような場所にいるとよく言いますが、大抵の生き物もそうではありませんか? 私達は魚のように水中で暮らすことなど到底できませんし、鳥のように樹上に巣を作ることも難しいでしょう。ですからこれは正しくないのです。では何が違うのか、と言いますと、簡単に言えば気配が違うのです。私のような聖職者は――ごく稀にではありますが――魔物を相手にすることもありますので、魔物の気配は、たとえそれがかすかなものであっても気付けるように訓練されているのです。……ずいぶん長い前置きになってしまいました。要は、ヤスノ峠で見たあの獣からは、魔物の気配が感じられませんでした。ですから魔物ではないと私は考えます」

 ライがふうんと声を漏らす。彼の顔にはそんなものかという言葉が現れている。

「ん、そんならメオンの旦那、まだヤスノ峠には魔物がいるんじゃねーの?」

「いえ、それは無いでしょう。魔物が出たという話は、おそらくあの獣を、魔物と間違ったのだと私は思います」

 ちらとメオンがアイラに目をやる。少しうつむいて焚き火を見ていたアイラは、唇を引き結んだまま黙っていた。

 既にメオンもアイラのこういった態度には慣れたらしく、気にした様子はない。

 だんだん話が別の方向へ進んで行って、最終的に雑談になっても、アイラだけは何も言わずに考え事をしていた。スカーフを巻き直すことすら忘れたように。

 アイラが考えていたのは、ヤスノ峠で感じたあの視線のことだった。敵意を含んだその視線は、これまでアイラに幾度となく向けられたもの。

(……誰かがいた?)

 しかし敵意があったなら、なぜアイラを見るだけに留めたのだろうか。一人きりだったのだから、襲うことも出来ただろうに。

(見定めていた?)

 色々と考えてはみるが結論は出ない。自然と険しい表情になる。

「どうした? 眉間に皺なんぞ寄せて」

 別に何も、と言いかけたアイラの頭にある考えが浮かぶ。視線の主が、ずっと監視しているとしたら?

 ごく端的に視線のことを伝えると、三人の顔に驚き、次いで警戒の表情が現れる。メイスを担いだライが見回りに行くと言い置いてその場を去った。

「しかし、気配は消えたのでしょう?」

「気配なんか、術を使えば何とでもなる。違う?」

「違いませんね。なら私もちょっと見回って来ましょう。ここはお二方で頼みましたよ」

 そう言って、メオンも去って行った。

 しかし、夜通し警戒したものの、結局アイラの感じた視線の主らしき人間が襲ってくることはなかった。

 

→ 護衛終了