一時の休日
アンジェはゆっくりと話し出した。自分の兄、メオンがカナンを師と仰ぎ、教えを受けていたこと。彼が自分も知らない間に、道を踏み外した“狂信者”となっていたこと。
そしてメオンは、今自分が一緒にいる女に異端審問をしようとして、逆にその女に殺されたこと。また自分が『読取』で見た、十四年前、ランズ・ハンで起きた出来事。そのことを伝えた、コクレアのヨルク司教には、全てを忘れるよう言われたこと。
ずいぶんと長い話になったが、イヴァク司教は一度も口を挟まず、時折頷きながら、ただじっと聞いていた。
「それは、お辛いことでしたろう。あなたも、お連れの方も。我らは『円環』の神に仕える者。受け入れなければ円環は作れぬと言うに、外れた者達は排除を以って『円環』を為そうとする。……しかし、しかしそれは、神の意に果たして沿うのでしょうか。レヴィ・トーマが求めた『円環』は、他者を排除することで成り立つものでしょうか」
「私は、そうではないと思います。先ほども申し上げましたが、ランズ・ハンで起きたことを、私は全て読み取りました。亡くなったハン族の人達だけではなく、彼らは、同じレヴィ・トーマの聖職者にまで刃を向けました。その方が、ハン族を庇ったと、それだけの理由で。ヨルク司教は忘れろと言いましたが、忘れることは、私にはできません。……いいえ。忘れてはならないと思います」
アンジェの脳裏に浮かんでいたのは、ランズ・ハンで見たアイラの姿。
誰も残っていない故郷でただ一人、彼の地で一族郎党を神の元へ送った彼女。もしも道を外れた“狂信者”がいなければ、彼女はあのまま、皆と一緒に過ごしていたはずなのだ。
一人残らず送って、自分一人になって、アイラは涙を流していた。それがどんな感情からかは分からない。けれど悲しみは、あったのではないだろうか。
アンジェの言葉を聞いて、イヴァク司教が微笑みを漏らす。
「どうか、忘れないでください。神殿は、彼らのことを認めようとしないが、しかし、誰かが知っていなければならないのです。道を外れた者達がいたことを。彼らが為したことを」
その日の夜、アンジェがジエンの邸で食事をとっていると、ほとんど音もなく、アイラが戻って来た。
アイラは戻ってすぐに湯を使ったらしく、灰色の短い髪はしっとりと湿っている。
温かい膳を運んできたリルに軽く頭を下げ、アイラは膳の前に座った。
何か考えているのか、眉間に皺を寄せた顔には、明らかに疲れが見えていた。
「明日は休んだら? ずいぶん疲れてるんじゃない? というか、あなた何してるの? 男装までして」
「ああ、そうするよ。何、ちょっとそこらのならず者に紛れてるだけだ。ジエンの息のかかった店で働く手もあったんだが、住み込みの小僧を装うんなら、ちょいちょい外に出る訳にはいかないしな。それに……裏の人間のことなら、裏の人間に近付いた方が早いし、裏に近付くんなら、男の格好の方が何かと便利なんだよ」
「今更言うことでもないけど、気を付けてよ」
「ああ。だが、根を詰めた甲斐はあった。少し前から町外れの空き家に、ジョン・ドリスらしい男が住み込んでいるらしい」
「……まさか、行くつもり?」
「すぐには行かないよ。情報が少なすぎる。行って別人だったら、洒落にもなりゃしない」
汁椀の半分ほどを一息で飲み干しつつ、アイラはほっと一息吐いた。温かいものを腹に入れたせいか、不意にどっと疲れを感じる。
このところ、アイラは男装をして『オレル』と名乗り、ならず者や路上暮らしの浮浪児に混じって過ごし、何かジョン・ドリスについての情報はないかと探っていた。
新参者のアイラが、どうにかうまく立ち回っていたのは、彼女の腕っぷしの強さと、ジエンの手の者の口利きがあったためだが、決して楽なことではなかった。
それでもアイラは、粘り強く情報を集めていた。根を詰めているのは確かだったが、その分、情報は集まっている。
兄の名を使うのは気が引けるが、かといって本名そのままで動くわけにもいかない。それに、男名を名乗るなら、『オレル』を名乗るのが一番しっくりくる。生まれてから十年、あのときまで、ずっと一緒に生きてきたから。
情報は集まっているとはいえ、疲れていることに違いはない。特にここ数日は、二、三度ジエンの邸に帰ってきたときくらいしか、まともなものを口にしていない。
そのせいで、少しばかりやつれたが、裏に混じるには好都合だ。
食事を終えたアイラは部屋に戻り、ごろりと横になるとそのまま眠ってしまった。それから少し経って、同じように戻って来たアンジェが、毛布をかけてくれたのも知らないまま。
アイラが目を覚ましたのは、真夜中のことだった。喉が渇いていたので、水を貰いに行こうと立ち上がる。
その拍子に、身体から毛布が滑り落ちた。ちょっとの間、アイラは毛布を眺めていたが、やがてその口元に、あるかないかの微笑みが浮かんだ。
そろりと部屋を出る。流石に真夜中ともなれば、邸は静まり返っている。アイラの耳に届くのは、廊下に張られた板が軋む音だけ。
部屋に戻って来たアイラは、再び毛布を被って横になった。
翌朝、普段より早く目を覚ましたアイラは、その場に坐ったまま、ゆっくりと身体を動かしていた。体幹から末端へ、ゆっくりと身体を動かす。
身体に不安はない。今の状態なら、何かあっても十分に対応できるだろう。
その後、朝食を取った二人は、揃って町へと出て行った。アイラも今日は男装ではなく、シャツとズボン、首元を隠す長いスカーフに、頭に巻かれた細いバンダナといういつもの格好である。
町中はやはり人が多い。その間を縫うように二人は歩く。どこに行くというあてもない。とはいえ、アイラは歩きながらも周囲に注意を払っていた。それは最早、彼女の癖の一つだった。
そんなとき、不意に前の方から叫び声が聞こえてきた。人々の間に恐怖の混じったざわめきが広がる。
少し遅れて、それを上回る声がアイラの耳にも届く。いや、もうそれは声とも呼べぬ、獣の咆哮がごとき叫び。
人波がざっとばかりに二つに割れ、血塗れの男が走ってくる。既に狂乱しているらしく、まともな人相にはとても見えない。
男は片手に、これも血塗れの剣を持ち、目に入った人間を切りつけている。
おお、と叫びながら、男が剣を振り回す。
その最中、三歳ほどの子供が、道に――よりにもよって、男の目の前に――まろび出て来た。人々から悲鳴が上がる。
もはや何の区別もつかない、狂乱した男の剣が振り下ろされる。
「円盾」
キィン、と高い音が辺りに響く。間一髪、滑り込んだアイラが、右腕の神の盾で、男の刃を受け止めていた。
「アンジェ!」
アイラの意を察したアンジェが、素早く駆け寄って子供を抱きかかえる。その足音が遠ざかるのを耳で確認して、アイラは受け止めていた剣を跳ね上げた。
(やれやれ。今は目立ちたくないのだけど)
遠くから、追手なのだろうか、怒声が聞こえてくる。
ひょいひょいと男の剣をかわし続ける。そうしながらナイフを取り出し、身体を屈めて男の剣を避けざま、その傍を通り抜けた。
その瞬間、男が膝を抱えて倒れ込む。
それからさほど立たない内に、男を追っていたらしい軽装の兵士達数人がその場に現れたときには、アイラとアンジェの姿はその場から消えていた。
→ 入相の丘