不可解な襲撃

 翌日も、朝から雨が降っていた。それでもアイラはアンジェと共に、買い物客に混ざって市場を抜け、商店街を歩いていた。

 天気は悪いのだが、買い物に来ている者は多い。売り子の声も陽気に響いている。

 鮮やかな野菜や果物を売る店、菓子を売る店、女性向けの首飾りや腕輪といった、装身具を売る店、ちょっとした軽食を売る店……。

 軽食の屋台でバオシャ(挽肉と刻んだ野菜を混ぜ、小麦粉を練った皮で半月形に包んで揚げたもの)を買う。雨のせいで冷えた手に、揚げたてのバオシャの温もりがありがたい。

 一口かじると、肉と野菜の他、油が口の中に広がった。

 バオシャが最も美味いのは、揚げられた直後なのだが、中から出て来るこの油がまた熱い。まだ揚げられたときの熱さそのままなのだ。

 そのためバオシャを食べるときには、吹いて冷ましながら、少しずつ食べるのが正解だ。下手に大口を開けてかぶりつこうものなら、高温の油で口の中を火傷する羽目になる。

 多くが明るい表情を浮かべている中、アイラは時折、さりげなく辺りを伺うように歩いていた。

 商店街にある、花屋の前を通ったときだった。じょうろを手に、内から出て来た若い娘が、ふとよろめいた。じょうろから零れた水が、ばしゃりとアイラの脚にかかる。

「あら、ごめんなさい! 中で乾かしてってくださいな」

 断りかけたアイラだったが、娘は半ば強引に、アイラを店に連れ込んだ。アンジェも手招きされ、おずおずと店の中に入った。

「お茶でも飲んでいってくださいな」

 白地に藍で模様が描かれた椀に、薄緑の、湯気の立つ茶が注がれる。

 茶を口に含むと、じわりと温もりが広がる。東部の茶特有の、ほのかな苦みに混じって、ぴりぴりと、かすかに舌を刺すような感覚。

(……熱いからか? いや、しかし……)

 ちりちりと、頭の奥で警鐘が鳴っている。これ以上、飲んではいけない、と。

 アイラはそれ以上茶に口を付けず、ある程度ズボンが乾いたところで、アンジェと共に店を出た。

 商店街を抜けて少し歩くと、人通りも少なくなってくる。雨も小降りになってきており、傘をささずにいる人の姿を時折見かけた。アイラも被っていたフードを取り、髪を空気にさらす。

 がらがらと、横を馬車が通り過ぎていく。その音が近付いて来てから、アイラは慌てて道の端に寄った。

 アンジェが何か言ったような気がして、アイラは隣を振り仰いだ。

「何か言った?」

「だから、ぼんやりして、どうしたの? 考え事?」

「…………まあね」

(……耳がおかしい)

 いつもより、音が聞こえない気がする。

 一瞬、視界が霞んだ。頭が重いような気までする。

(風邪でも引いたか?)

 考えに気を取られていたせいか、それとも別に原因があるのか、アイラは珍しく、周囲の気配に気付くのが若干遅れた。

 気付けば、五、六人の男が二人を取り囲んでいた。

「……アンジェ、下がって」

 軽く腰を落とし、灰色の瞳で男達をじろりと見回す。

「大人しくしてな。命まで取る気はねえ」

 右目に眼帯を付けた、筋骨たくましい男が歩み寄る。間合いに入ったら脛を蹴飛ばしてやろうと思っていたアイラだったが、男は間合いぎりぎりで立ち止まる。

「誰の差し金だ」

 低い声で問う。

「今は、教えらんねえな。来りゃあ分かる」

 無造作に足を踏み出そうとする男を睨み付ける。

「それ以上、近付くな」

 そう言うと同時に、アイラの全身が総毛立った。振り返ろうとした瞬間、背後から首に腕が巻き付けられる。

 とっさに顎を引き、左手を腕にかける。首を絞めて落とすつもりだろうと思ったのだ。

 しかし、相手の目的は、違っていた。

 湿った布が、鼻と口を覆うように押し当てられる。痺れるような感覚が、鼻に抜けた。

(まずい!)

 背後に向けて、思い切り肘鉄を叩き込む。締め付けが緩んだ瞬間、腕を掴むと、捩るようにして引き倒した。

 が、そこまでが、限界だった。ふっと視界が暗転する。

「元締の言い付けだ。悪く思うなよ」

 遠くで、そんな声が聞こえた気がした。

「アイラ!?」

 男を引き倒したアイラが、人形のように倒れるのを見て、アンジェは思わず叫んでいた。

 眼帯の男が合図をすると、アイラは馬車に運び込まれる。

「お前さんは……まあ、来てもらおうか。見られちまってるしなあ」

 眼帯の男が、困ったような顔で、アンジェに声をかける。

「私達を、どうするつもりですか」

「だから、何も殺そうってんじゃねえのよ。そりゃ、『舞闘士』の娘には、ちょっと手荒い真似はしたが……。はあ、ここで喋ってても怪しまれる。行くぞ」

 一度アンジェに馬車を示した後で、男は思い出したように、懐から黒い布を取り出した。

「悪いが、目だけ隠させてもらう。着いたらちゃんと外してやるから、我慢してくれ」

 アンジェの返答も聞かず、男は手早くアンジェに目隠しを施した。

 意識のないアイラ、アンジェ、そして眼帯の男が乗り込むと、馬車は小さく揺れて走り出した。

 それからどれくらい馬車に乗っていたのだろうか。アンジェの体感では、一時間は乗っていただろう。

 かすかないななきと共に、馬車が止まる。

「さて、こっちだ」

 眼帯の男に導かれ、まだ目隠しを付けたまま、アンジェは馬車を降りた。

 眼帯の男は注意深くアンジェに手を貸しながら、邸の前庭を進んで行く。

 靴底に感じる砂利の感覚から、アンジェは、道が舗装されていないことを悟っていた。

 目を塞がれている彼女は知らなかったが、この屋敷は、リントウの伝統的な建物と言うよりは、東部の島国でよく見られる造りになっていた。

 瓦で葺かれた屋根、木製の壁と引き戸。青々とした生垣に囲われた敷地には、どこを見ても白い玉砂利が敷かれている。

 家の周囲に砂利を敷くのは、東部でよく見られる侵入者対策である。石の上、土の上では足音を消せても、細かい砂利の上で足音を消すことは難しいからだ。

 建物へと続く道には、飛び石のように、ほぼ等間隔で平らな石が並んでいた。

 ざく、ざく、と砂利を踏みつつ、進んでいくのを耳で知る。

 からから、と引き戸が開く音がした。

「おっと、もう目隠しを取っていい。リル、“鈴蘭”まで案内を」

「はい」

 女中らしい、黒い髪を結った若い娘が、アンジェの先に立つ。

 中を土足で歩き回れることから考えて、完全に東部式という訳ではないのだろう。

“鈴蘭”は、どうやら部屋の名前らしい。かちゃりとドアを開けると、中はやや広めの部屋になっていた。

 草のような匂いが鼻をつく。

「それでは、こちらでお寛ぎくださいませ。何か御用があれば、いつでもお呼びください」

 リルがそう言い置いて立ち去る。

 後ろで鍵が閉まる音がしたが、アンジェはそれを気にかける余裕はなかった。

 部屋に置かれた低いベッドの一つに、アイラが横たわっていた。

 脈はゆっくりと打っており、呼吸は深く、しかし弱い。

 軽く揺すってみたが、アイラの様子に変化はない。

 これからどうなるのか、彼らの目的は何なのか、そもそも、ここはどこなのか。分からないことばかりだ。

 胸元の聖印を握り、アンジェは小声で祈りの言葉を呟いていた。