二つの別れ
翌日、アイラは朝から身支度を整えていた。昨日、エンキも交えてもう一度話し合い、アンジェはヤサカ市の神殿でしばらく養生することが決まっていた。
身体に傷はなくとも、アンジェが心に負った傷は深い。しばらく休んで、少しでも癒えるならそれがいいだろう。
その後で、アイラは一人、ヒシヤの家に置いていた荷物を取りに行った。処分されているかと思ったが、幸い、荷物はイナが保管してくれていた。
あの後どうなったかと聞いてみると、さして何か特別なことが起こったわけではないらしい。腰を抜かしていたナナエも、それを引きずるようなことにはならなかったそうだ。とはいえ、もうアイラやアンジェをどうこうしようという気はないようだ。
それとも、彼が止めたのだろうか。
一通り話を聞いて、そうか、と頷くアイラとは対照的に、イナはどこか暗い顔をしていた。
どうしたのかと尋ねると、イナが重い口を開く。
「これほどのことがあっても、あの人達は儀式を辞めるつもりはないそうなんです」
「……どこかに訴えられないのか」
「できなくはないでしょうし、訴えれば、いくら家のこととはいえ、内容が内容ですから、動いて頂けるでしょうけれど、でも訴えた後がどうなるか……」
イナは悟っている。訴え出れば無事ではすまないと。
そう気付いても、アイラは表情を変えずにいた。
最早、自分が関わる問題ではない。
「別に、私と連れに手が出されないなら、私はこれ以上何かする気は無い。家の問題だと言うなら、私に関わる権利はないし」
「そうですね……。本当は、少し期待したんです。あなたなら、あの人達も変わってくれるんじゃないかって」
ぽつりと、イナが零す。ほんの少し滲み出た落胆に、アイラは冷たく言葉を返す。
「……周りだけの変化を望んでも無理だろう。自分だけは変わらずに、周りだけが変わるような、そんな都合のいい展開が通じるものか。何かを得るためには何かを失わなければならない。変化を望むなら、自分も変わらなければならない。そうでもなしに、自分に都合のいい結果など、もたらされるものか」
そうですね、とイナが肩を落とす。
「話し過ぎました。用が済んだのならお帰りください」
イナの口調が、冷たい、突き放すようなものに変わる。
「そうさせてもらう」
アイラも淡々と答え、軽く頭を下げる。愉快なことはなかったが、世話になったのは事実だ。
「……もしも何かするつもりなら、自身としても、親としても、後悔のない選択を」
歩き出したのも束の間、立ち止まり、
そのまま荷物を担ぎ、ヒシヤの家を後にする。二人分の荷物とはいえ、そう量は多くない。一人でも十分に持てる。
ヤサカ行きの船は昼には出る。アイラが乗る予定の、リントウに向かう船は夕方に出るため、アイラが二人を見送る形になった。
「じゃあ……元気でね、アイラ」
「ん。……春に、なったら、顔を見に行く」
アンジェに頷き、少し躊躇って付け加える。先のことについて触れるなど、滅多にしないのだが。
「ええ。無理は、しないでね」
その言葉に、一つ頷く。それでもアンジェは、どこか不安そうにアイラを見ていた。
「そんな顔をしなくても」
「だって、あなたすぐに無理をしそうなんだもの」
「……別に、限界は知ってるさ」
肩を竦める。そろそろ行きますよ、とエンキが後ろから言葉を投げる。
「冬の間は、北部の……トレスウェイトにいるから、何かあったらそこに言伝るといい」
「分かったわ」
最後に一度手を振って、アンジェはエンキと共に船に乗り込む。
小さくなっていく船を、アイラはじっと見守っていた。
一人になると、辺りが急に静かになったように思う。町の喧騒もどこか遠い。
春に出会ったときは、すぐに別れるだろうと思っていた。夏、秋と共にいて、いつしか大切な存在になっていた。全てを失って、無関心になった自分が、失いたくないと思うほどに。
そのことに、改めて気付く。
一人でいることには慣れていたはずだが、隣にいた顔がいないのは、これほど物足りない――寂しい、ものだったか。
(何、二度と会えない訳じゃない)
そう内心で呟く。それでも、どこかでずっと二人で旅をすることを考えてしまっていたのだろう。そんな都合のいいことは起こらないと、分かっていたはずなのに。
日が傾きかけたころ、リントウに行く船が出ることを知らせる鐘が鳴る。
荷物を担ぎ、立ち上がったアイラは真っ直ぐに船に向かう。
ここへ来たときと同じ潮風が肌を撫でていく。
ここでのことも、いつかただの過去として、思い出す日が来るのだろうか。
ふとそんなことを思い、らしくないなと首を振る。既に過去は過去。感傷を挟んだところで仕方がない。
この先あの家で何が起ころうとも、それはアイラの問題ではない。万が一、また関わることにでもなれば別だが、そうでなければ関わるつもりなど更々無い。
彼らの家に問題があるなら、彼らが解決すべきだ。他人が首を突っ込むべきではない。
(彼女は何を選ぶのだろうな)
己の変化を恐れ、このままの日々を続けるなら、彼女はいつか壊れるだろう。それとも、心を麻痺させて、何も感じないようになるかもしれない。
例え後々無事ですまないとしても、変えようと足掻くのなら、また別の結果になるだろう。
どちらにせよ、それはイナが決めることだ。
出航の汽笛が鳴る。甲板から少しずつ遠ざかって行く陸を見ながら、アイラは汽笛に紛れさせて、さようなら、と小さく呟いた。