二つの刻印

 リントウからヤタまでは、船で半日かかる。

 船の甲板で、アイラは海風に吹かれていた。その隣では、アンジェが海を眺めている。

 青い空と青い海。何度かヤタに渡っているアイラには、さほど珍しいものではなかったが、旅に出るまでは神殿にいたアンジェには、海は珍しいのだろう。目を輝かせている。

 内心、アンジェが酔いはしないかと心配していたアイラだったが、その心配はどうやら杞憂らしい。

 甲板にも他の客が何人か出てきて、思い思いに過ごしている。

 その中で、少女が一人、ぱたぱたと甲板を動き回っている。

 アイラの近くにいる、親らしき二人連れが時折呼び寄せ、注意を与えてはいるが、少し経つと、少女はそんなことなど忘れたように、あっちへ行き、こっちへ行きしている。

 鮮やかな赤い着物を着た少女の胸には、変わった意匠の布包みが揺れていた。

 両親らしき男女の胸にも、同じような小さな布包みが揺れている。赤い布で包まれ、首から下げるように包まれた俵型の包みで、何を表したものか、文字のような、図のようなものが描かれている。

(炎、に似てるな)

 それ以上何を気に留める訳でもなく、アイラはのんびりと潮風を受けていた。

「ね、あそこ、鳥があんなに!」

 アンジェがいつになくはしゃいだ声を上げて、一点を指差す。

 確かに、海上に海鳥が群れ集まっている。

「あの辺りにいる、魚の群れを狙ってるんですよ。ほらあそこに、漁船も出てるでしょう」

 アンジェの声を聞いたらしい女性にそう教えられ、アンジェがまあ、と目を丸くする。

 そのとき、船が大きく揺れた。口々に悲鳴が上がる。

 同時に、一際甲高い悲鳴。一瞬遅れて赤色が水に落ちる。

「サヤ!」

 落ちていく赤い着物を見た瞬間、スカーフを外し、靴とシャツを瞬時に脱いだアイラは柵を飛び越えていた。浮遊感の後で、衝撃と共に水に落ちる。

 少女はすぐに見つかった。沈みかける赤い着物をしっかりと支える。その拍子に、アイラの手が少女の胸に下がっていた包みに触れた。

 瞬間、ちり、と手が痛んだ。冷たい水に浸かっているはずなのに、手に感じたのは紛れもない熱さ。

 困惑しているところへ、上から、先が輪になったロープが落ちてきた。その意図を察したアイラは輪を掴むと、少女の脇の下に通して結び目を締める。

「上げろ!」

 少女が引き上げられる。間もなくアイラも同じようにして船に戻った。

 アンジェ曰く、少女は少し水を飲んでしまっていたようだが、命に関わることはないという。一安心したアイラは、濡れた服を着替えるために船室に向かった。

 着替える最中、ふと思い出して手を見る。左手は何ともなかったが、右掌は赤くなり、水ぶくれができていた。

(火傷……水中で?)

 妙なこともあるものだと眉をひそめる。

「アイラ、会いたいって人が来てるけど、開けていい?」

 その声に、アイラは慌てて手に持っていた上着を着てドアを開けた。ドアの向こうにはアンジェともう一人、男が立っている。少女に注意をしていた男だ。

「自分はカズマ・ヒシヤと申します。娘を助けてくださったこと、感謝いたします」

 カズマが深々と頭を下げる。

「別に、大したことをした訳じゃない」

「とんでもない! とっさの瞬間にあそこまでの行動は、中々できることではないと、水夫の方々も言っておられました。……失礼ですが、右手を、見せていただいても構いませんか?」

 小首を傾げつつ、アイラは右手をカズマの目の前に出して見せた。やはり、とカズマが口の中で小さく呟く。

『燔祭の印はここにあり』

 そっとカズマの手が火傷に触れ、耳慣れぬ発音の言葉が耳に届くと同時、右手が不意に熱を持つ。焼きごてを押し当てられるような熱と痛みが、右手を貫いた。

 周囲が酷く騒めいている。ぎり、と歯噛みをした、その瞬間、ぷつりと音が途切れた。

 肌に触れる、ひやりとした空気に目を開ける。周囲に見えるのは、それまでいた船室ではなく、淡い燐光に照らされた石造りの部屋と、円形の石舞台。

(ランズ・ハンの、神殿……)

 習慣的に、アイラは石舞台の前に額付き、祈りの言葉を唱えた。衣擦れの音が近付いてくる。

――“門の娘”、気を付けよ。炎に飲まれぬように。

――炎、ですか。

 アルハリクの声を聞き、珍しく、アイラの顔に戸惑いが浮かぶ。

 その様子を見て、アルハリクは片手で背後に控えていた従者に何やら手で示した。それを見て取って、音もなく従者が進み出る。

――右手を。

 アイラは何も問うことなく、火傷のある右手を差し出す。従者は小柄を抜き、さっとアイラの右掌を切り付けた。鋭い痛みが走る。

――これで、少しは助けになろう。“門の娘”。例え周りが何を言おうとも、お前の信仰は決して間違ったものではない。

――そのお言葉、胸に刻みます。

 衣擦れの音が遠ざかる。はたと我に返ると、そこは元通りの船室。

「手は、これでいいかと思います。いかがですか」

 手をどけて、アイラの右掌を見たカズマと、横から覗き込んだアンジェの顔が、驚愕で固まる。

 アイラの掌には、火傷を切り裂くように、横一文字に深い切り傷が走っていた。カズマが手を触れる前には、なかったはずの傷が。

「その、傷は……」

「……ん? さっき、切った。気にしなくていい」

 言いつつ荷物から包帯を取り出し、口と左手を使ってきつく縛る。

「とにかく、今は十分なお礼もできませんが、家に来ていただければこの御礼はきっといたします。どうでしょう、来てはもらえませんか」

「家は、ヤタに?」

「はい。ヤタのカヤノ市に」

「分かった。伺うことにしよう」

 アイラの口から自然と言葉が漏れる。そのことに驚く間もなく、カズマの顔が輝いた。

「ありがとうございます。そちらの方も、ぜひ」

「え、ええ」

 アンジェの手を取り、一礼した後、カズマは部屋を出て行った。彼が手を取った瞬間、アンジェの顔が歪んだのを、アイラは見逃さなかった。

 カズマが去った後で、アンジェが手を見下ろし、驚いた様子で目を見張る。

「火傷したのか」

「ええ……、火の気なんてなかったのに。って、それより、あなたよ! 手、見せて」

 アイラは手の包帯を解き、掌をアンジェに見せた。切り傷は深く、まだ血が止まっていない。

「痕が残るかもしれないわね……」

「別にいいよ。痕くらい」

 アンジェが治癒の呪文を唱える。痛みが引いたとき、右掌には火傷の痕と切り傷の痕が残っていた。

「でもこんな傷、初めは確かになかったのに……」

 治療しようとして、首を傾げるアンジェ。アイラは少し考えて、一旦治療を止め、船室のドアから外を見た。

 外に誰もいないことを確認し、ぴたりとドアを閉める。

 訝しげなアンジェを手招き、アイラはその耳元で早口に、あったことを囁いた。

「でも、そんなこと……」

「別段おかしな話じゃないさ。特に私は“門”なんだから。それに、聖職者なら、経験はあるだろう?」

「流石にそこまではないわよ。司教様とか、大司教様とかならあるかもしれないけど。それより、『炎に飲まれないように』か。どういうことなのかしら。火事でも起きるの?」

「……んー、そういうことじゃないと思う。それに、さっき、私の意思と関係なく、口が動いた。……多分、彼が関わっている。とにかく、ああ言ってしまったからには、ヤタに行くより仕方がないだろうね。……アンジェも、気を付けていて」

「分かったわ」

 軽く船が揺れる。間もなくヤタに着くことを知らせる音声が、二人の耳にも聞こえてきた。

 

→ 芳香