二つの報せ
家に帰って来ると、リウとミウが揃って、お帰り、と声をかけてきた。一拍置いて、アイラも、ただいま、と言葉を返す。
いつもの席に座り、かじかんだ手を少しの間、暖炉の火にかざして温め、十分に温まってから、アイラは手紙を取り上げた。
封を開き、便箋につづられた文字に目を落とす。
綺麗に整った手で、アイラと別れてからのことが書かれている。ヤタの、ヤサカ市の神殿で養生を続けているが、最近では身体の具合も良い、もし身体が空いたら、そして春になったら、良ければヤタの神殿を訪れてほしい、と結ばれていた。
手紙を読むアイラの顔は、日頃の無表情が嘘のように、優しい顔を見せていた。その口元には、彼女が時折浮かべる、引きつったような笑みではなく、かすかな、しかし自然な微笑みが浮いていた。
「誰から?」
「ん? ああ、例の、レヴィ・トーマの聖職者から」
ミウに答えたアイラの顔には、まだ微笑みの影が消え残っていた。
「いいこと書いてあったの?」
「ん、まあね」
そこへ、リウが紅茶の入ったカップを置いたので、アイラは一言礼を言って、湯気の立つカップを取り上げた。
砂糖を入れていない紅茶は少し苦く、それでも腹から温まる。寒い外にいた身には、温かい紅茶がありがたかった。
「だいぶ遅かったけど、向こうで何かあった?」
「……ああ、例の子の母親が、ちょっとね」
「あら、困ったものね、あの人」
リウが紅茶に砂糖を入れながら溜息を吐く。
「ジョセフィン小母さんも、だいぶ迷惑してるみたいよ、あの人、すぐ子供を引き合いに出して文句つけるから」
ミウがそう相槌を打つ。
「村の人達も、あんまり関わりたくないみたいだけど、元々この村の人だし、色々難しいみたいね」
「でも本当に、アイラは気を付けた方がいいと思うよ。ルイン小母さん、相当アイラのこと嫌ってるみたいだし」
「だろうな」
どこか他人事のように、アイラは頷く。いつものことだが、他人が自分を好こうと嫌おうと、そんなことはどうでもいい。生きることだけが重要だし、ここでなくても、どこでも生きていける。
だが、とも思う。
ここを離れて、戻らないことを考えると、胸の奥がちくりと痛むのだ。多分、この姉妹に情を移してしまっているからだろう。
「アイラ?」
リウの声に、現実に引き戻される。
「ん?」
「もう一杯、どう?」
「うん。貰うよ」
熱い紅茶をもう一杯注いでもらい、砂糖を入れる。白い砂糖は、すぐに褐色の茶に溶けて見えなくなった。ティースプーンの先に砂糖のざらつきが感じられなくなるまでかき混ぜて、甘くなった紅茶を口に含む。
(春になったら、ヤタの神殿に、アンジェを訪ねてみようか……)
ヤタにはいい思い出があるとは言えないが、それとこれとはまた別の話だ。久しぶりに、アンジェの顔を見たい。冬の間のことを話したい。
窓が揺れる音。ミウが立ち上がり、窓に近付く。
「何だか、吹雪いてきそうよ、姉さん」
「あら、さっきまでいい天気だったのに」
リウが少し眉をひそめ、妹の言葉にそう答えた。
ミウが雨戸を閉めに出ていき、アイラは飲み終えたカップを台所に持って行ってすすいでいた。
やがて、薄暗くなった家の中では、リウがランプを灯し、その明かりの下で、めいめいが刺繍や編み物、木工細工で時間を潰していた。
風が強くなってくる。かすかに、空気を切り裂くような鋭い音が聞こえていた。
小鳥の、細い嘴を削っていたアイラは、いつしか手を止めて、風の音に耳を傾けていた。
瞼が徐々に重くなってくる。握っていたナイフを落としそうになり、アイラは軽く頭を振った。
「どうかしたの、アイラ?」
「んー、ちょっと寝てくる。昨日、あんまり寝てないんだ」
パチリとナイフを鞘に納め、欠伸を噛み殺しつつ部屋に向かう。
首元のスカーフと頭のバンダナを取り、ベッドに横になる。少しの間目を閉じて、外を吹く風の音を聞く。その音は、間もなく聞こえなくなった。
「アイラ?」
ミウの声に目を開ける。起き上がると、灯りをともしていない部屋の中は真っ暗になっていた。
「そろそろ夕飯だけど、食べる?」
「ん。もっと早く起こしてくれてよかったのに」
「よく寝てたから、起こすのも悪いと思って」
すでに食卓には、パンとエディ・トジャ(挽肉をトジャの葉で包んで煮たもの)の皿が並んでいる。煮られて柔らかくなったトジャの葉を歯で噛んで破ると、ふわりと湯気が立ち上り、まだ熱い肉汁が口の中に流れてきた。
夕食を終える頃には、外から聞こえてくる風の音は、だいぶ弱くなっていた。そろそろ眠ろうか、と三人はそれぞれの部屋へ引き上げる。
アイラは床の上に胡坐をかき、息を数えながら目を閉じた。
ふわりと、冷えた空気が肌に触れる。目を開けるとそこは神殿の中で、また呼ばれたことを理解する。
短い廊下を歩み、祭壇の前に額づく。間もなく、さらさらと衣ずれの音が耳に響いてきた。
――面を上げよ、“門”の娘。
声に応じて、伏せていた顔を上げる。従者を伴って現れたアルハリクの顔は、アイラが戸惑いを覚えるほど強張っていた。
十四年前、初めてアイラの目の前にアルハリクが現れたときも、この神はこんな顔をしていた。
自分の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
――聞け。お前は選ばねばならぬ。本来守るものがなくとも我が武器を手に取るか、それとも今の己の居場所を失うか。どちらを選んだとしても、お前にとって楽な道ではあるまい。
自分に注がれる痛いほどの厳しい視線を、アイラは真正面から受け止める。
「お言葉の意味を、私はまだつかめてはおりません。ですが、父なるアルハリク。選ぶ道がどのような悪路であれ、私は歩んでまいります。あなたの目が、あなたの手が、私のもとにございますならば、私は迷いはいたしません」
――その気持ちを忘れぬことだ。それはお前にとって、先行きを照らすものとなろう。
言葉を残し、衣擦れの音が遠ざかる。
目を開いたアイラの意識は、既に寝室に戻っていた。部屋に置かれた小さな時計を見ると、六の刻を差している。
ぐ、と思い切り背筋を伸ばして、アイラは服を着替え始めた。
今日もまた、穏やかな一日になるのだろうと、彼女ばかりでなく、二階で起き出した双子もそう思っていた。
→ 守るべきもの