二つの計画

 かすかな軋みと共に、古びた小屋の戸が開かれる。中にいた者達が、一斉に戸口に視線を向けた。

 男が一人、小屋の中に無言で入って来る。どこにでもいる旅の楽師のような格好をしてはいるが、その目つきは猛禽類の目にも似て鋭い。およそ旅芸人が浮かべる類の目つきではない。

 小屋の中にいる者も、皆一様に旅芸人や行商人のような格好をしている。そして彼らの額には同じ紋様があった。すなわち、赤線で消されたサウル族の紋様が。

「イルド、向こうの様子はどうなっている?」

「ノルトリアを発った。金の髪の男はいない。今は女ばかりだ」

 小屋の中で一人、煙草を吸っていた三十前後の男が問いかける。イルドと呼ばれた男は、それに淡々と答えを返す。

 しばらく黙っていた男は、煙草をもみ消すと、にやりと笑みを浮かべた。

「女ばかりなら都合がいい。腕の立つ奴らを五人も選んで向かわせればいいだろう」

「しかし、ヤツトさん……」

 部屋の隅で、数種の薬草を束ねたり粉にしたりしていた若い男が、恐る恐る口を開く。煙草を吸っていた男は、ぎろりと鋭い視線を向けた。

「何だ、ネズ」

 気圧されたように口ごもり、ネズは唾を飲んで再び口を開く。

「リイシア様を連れている女性は、“アルハリクの門”なのでしょう? ならばただの女性であるはずもないでしょうし、軽視すべきではないのでは」

 ヤツトが荒く鼻を鳴らす。

「襲撃すら防ぐことのできないような奴の、何を恐れる必要がある? それにどんな女だろうが、これでも使って動けなくしてしまえばいいだろう?」

 ヤツトがすらりと抜いた短剣。その刃は濡れたように光っている。何かが塗られていることは明白だった。

 短剣を見て、ネズが小さく息を呑む。

「それは……しかし……そもそもあなたの目的は、長と話し合うことでは――!」

 ネズの言葉が途切れる。彼の喉には、短剣の先が当てられていた。

 どちらかが少しでも動こうものなら、その瞬間に短剣はネズの喉に突き刺さるだろう。

 その瞬間を想像してしまい、思わずネズの全身に震えが走る。

「甘いんだよ、お前は。俺の言葉を、ユートが聞くはずがないんだ。なら、あいつの大切なものを全て壊してやる。前に俺があいつにされたように」

 怨嗟に満ちた、ヤツトの声。唇を震わせながら、強張った顔で、ネズは言葉を絞り出す。

「まさか、あなたは、リイシアを……? それは、いくら、何でも、残酷では――!」

 ぐ、と更に切っ先が押し付けられる。ごくりとネズの喉が鳴った。

 今押し付けられているのが、ただの短剣ではないことを知っているネズは、顔面蒼白のまま言葉を途切れさせる。

 ほんの少しでも、傷付けられれば、無事では済まない。

 周囲の人間は誰も、ヤツトを止めようとはしない。彼の怒りが自分に向くことを恐れているのか、それとも、最初から止める気がないのか。

「残酷?」

 ヤツトの声は恐ろしく低い。彼の目には、怒りと嘲笑が混ざった色が浮かんでいる。ネズはほとんど息もできないまま、ただヤツトの言葉を聞いていた。

「十三の娘を殺すのは残酷で、二十二の女を見殺しにするのは残酷ではないって言うのか? ユートの野郎が下らない掟で見殺しにしてなけりゃ、コーリは今でも生きていたんだ」

 暗い色を湛えたヤツトの視線がネズを射抜く。

 ヤツトは言葉を荒げてはいない。しかし低い声で語られる言葉には、彼の感情がこもっている。

「もう一度甘いことを言えばどうなるか、分かるな? こっち側に来た以上、もうサウル族には戻れないんだ。いい加減、覚悟しろ」

 ネズの喉から短剣が離れる。思わず喉首に手を当て、怪我の有無を確認した彼の姿に、ヤツトやその周囲から、嘲るような笑いが起こった。

 うつむいたネズはそれらには反応せず、再び薬草を粉にする作業に戻る。彼の顔はまだ青く、両手は細かく震えている。

 そんな彼を気にするものは少なく、大半はヤツトの語る計画に耳を傾けている。

「ノルトリアを発ったなら、三日後にはノドの森に入るはずだ。ここからなら、一日あれば森に着く。スル、オド、ナユル、エト、ヨーグ。奴らが森に着いたら、リイシアを連れてこい。リイシアを連れている女は殺して構わん」

 名を呼ばれた五人が立ち上がり、小屋を出て行く。ふと何かを思い出したように、ヤツトが一人を呼び止めた。

「エト、お前はハン族の娘に顔を知られている。気取られるなよ」

「分かっている。心配するな」

 以前アイラによって、小屋に閉じこめられていた男が、低い声で答えを返した。

 彼らの様子を黙って眺めていたネズの目には、決意の色が浮いていた。その色を周囲に気取られぬよう、彼は目を伏せて草を粉にしていた。

 既に彼の心の中には、一つの計画が定まっていた。しかし、これを実行に移せば、自分は死ぬかもしれない。

 それでも、このまま誰も止めなければ、リイシアがどうなるのか、ネズには分かっていた。

 思い出す。リイシアの満面の笑みを。

 あの笑顔を、消してしまっていいはずはない。

 小屋の中が静まり返った夜更け、ネズは薬草や調合の道具が入った袋を持って立ち上がった。静かに部屋の端を回り、戸に手をかける。

「どこに行くの」

 ネズの動きに目を覚まされたのだろう。若い女が少し身体を起こして尋ねた。どきりと心臓が跳ねたが、努めて平静を装い、用意していた答えを返す。

「ウラを摘みに。だいぶ減っていたので」

 傷に効く薬草の名を上げる。あながち嘘ではない。減っていたのは事実だ。

「なら朝になってからでもいいんじゃないの」

「朝になると霧が出て、草が濡れる。そうすると後で余計な手間がかかるから」

 女の答えも待たず、ネズはできる限り静かに小屋を出た。とはいえ古い小屋のこと。建てつけの悪い戸はがたがたと音を立てる。

 外に出ると、冷たい夜風が肌を撫でていく。小さく身体を震わせ、ネズは草だらけの道を歩き出した。

 彼らがいたのは、今はもう使われていない古い街道に建つ小屋。元は旅人が泊まるための小屋だが、遠回りだった旧道の代わりに新道ができたことで、使われることはなくなった。

 唇を引き結び、迷うこともなくある方向へと向かうネズ。下草を揺らしながら向かったのは、川。

 繋がれていた小舟に乗り、櫓を手に川を下っていく。

 心臓が痛いほど鳴っている。夜が明ける前に、目的の場所まで行かなくては……。

 今なら、まだ戻れる。

 胸の奥でもう一人の自分が囁く。

 舟を岸に付けて、ウラを摘んで、何食わぬ顔で戻ればいい。誰も自分が何をしようとしていたか、気付かない。気付くわけはない。

 ヤツトの言った通り、サウル族にはもう戻れないのだ。

 囁きかける声を、頭を振って追い払う。この期に及んで迷う自分に腹が立った。

 昔から、気弱だ、臆病だと言われ続けていた。母親などは、事ある毎に言っていた。

 お前は一体、強さをどこに置いて来たの、と。

 昔は言われる度に傷ついていた。それでもそのうち、何とも思わなくなった。

 もう一度、リイシアの顔を思い出す。

(殺させたり、しない)

 例え、ヤツトの怒りが正当であったとしても。例え、長が間違っているのだとしても。責任を負うべきは本人だ。子供には、責任はない。

 舟は静かに川を下っていく。ネズを乗せて。

 流れ任せに下りながら、ネズはいつしか両手を組み合わせていた。

 

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