二人が背負うもの

 白々と夜が明けかかる。それを確認して、アイラは社務所の外に滑り出た。

 イナはまだ中にいる。ひどく悩んでいたようだったから、アイラは強いて声をかけようとはしなかった。

 スカーフを巻き直し、社務所の戸を閉めて行きかけたとき、後ろから声がかかる。

「待ってください。私も戻ります」

 唇を真一文字に結び、引きつった顔で出て来たイナの言葉に、アイラは眉を跳ね上げた。

「いいのか? 決していい結果にはならないぞ」

「ええ。私もしなければならないことがあります。親として、そしてヒシヤの家の人間として」

 ふうん、とアイラは頷いた。イナが何を決めたにしろ、アイラにとっては関りのないことだ。自分の目的の障害にならなければ、それでいい。

 それから少し後、朝日に照らされたヒシヤの家の門前に、アイラとイナの姿があった。

 灰色の短い髪を朝日に当てながら、アイラは門を叩いた。少し経って、内側から門が開けられる。

 門を開いたカズマは、二人が立っているのを見て瞠目した。

「あなたは……!? 一体、なぜ……」

「……必要があるから来たんだ」

 淡々と答えるアイラは、下からカズマを見返す。呆気に取られていたカズマは、軽く咳払いをして二人を中に入れた。

「何も出せませんが、中へ。君もね、イナ」

 カズマについて、家の奥へと向かう。客としていたときは、行かなかった場所だ。

 家の中には相変わらず、甘い香りが漂っている。アイラは爪が手に食い込むほど強く、両手を握りしめた。爪で皮が破れ、血が出ようともそんなことは構わずに。

 今はもう、自分を失う訳にはいかない。だがそうかと言って、アンジェを置いていくという選択肢もない。

「贄が戻ったか」

 奥の間の前で、カズマが中に向かって声をかけると、しわがれた声が返って来る。

 襖が開かれると、部屋にこもっていた香の匂いが、どっと外に流れて来た。

 部屋の四方と襖の脇には、アイラの背丈ほどもある燭台が立てられ、太い蝋燭に灯された火がゆらゆらと揺れていた。

 部屋の中には既に三人の人影がある。ナナエ、サヤ、そしてアンジェ。

 ナナエは祭壇の前、アンジェはその後ろ、そしてアンジェの後ろにサヤが座っている。

 アイラは黙って中に入り、まるで内容を分かっているかのように、アンジェの隣に座る。

 ちらりと見たアンジェの顔は強張っており、その眼は冷たい光を宿していた。

 彼女は返っている。かつてアイラを仇としていたときの、あの冷え切った心の持ち主に。

 それと悟っても、アイラの表情は変わらない。動揺もなく、困惑もない。

 イナとカズマが、サヤの両側に座った。

 じろりと後ろを確認して、ナナエが祭壇に向かって何やら唱え始める。共通語ではない。恐らくこの辺りの言葉だろう。

 眠気を誘うその言葉で、少しずつ頭がぼんやりとしてくる。

(まずい……!)

 強く唇を噛み、手を握る。痛みで、無理やりに意識を覚醒させる。

『我らは今年の贄を捧げまする。罪を浄められた者を、どうかお受け取り下さい』

 ゆっくりと、ナナエがこちらを向いた。その顔は険しく、温かみの欠片もない。

「罪ある者は、浄められねばならぬ。弾劾する者よ、汝の言葉にて、罪を明らかにすべし」

 ナナエの視線がアンジェに向く。はい、と小声で答えたアンジェは、ゆっくりと立ち上がった。

 その手にあるのは、柄に飾りが施された短剣。アンジェが腰に帯びているものだ。

「この者は、私の兄を殺しました。兄は敬虔なレヴィ・トーマの聖職者でした。兄の信仰に落ち度はなく、それなのにこの者は、兄の提示した救いを受け入れず、狂信者として殺しました。彼女にそんな権利はないはずなのに。そして死後も、兄は“狂信者”だと言われ、貶められています。これを罪と呼ばず、何と呼ぶのでしょうか」

 アイラが立ち上がる。その顔に感情はなく、何を思っているのか分からない。

「罪人となった者よ。大主様の前で懺悔し、罪を認めよ」

 アイラは真っ直ぐに、アンジェの瞳を見つめた。ナナエが何か唱えているが、アイラの耳には届いていない。

 カズマが座を立ち、アイラの腕を取ろうとした。抵抗しないように、ということだろうか。

 くるりと振り返る。アイラの瞳は石のように冷たく、顔には一切の情を受け付けぬ、酷薄の相。それはつまり、アイラが目の前の人間を『敵』と認識した証。

 カズマの両腕を掴み、股の辺りに自分の左足を当てる。カズマが振りほどこうとした瞬間、アイラは右足で二度ほど横に跳ね、身体を横に沈めるように捻る。

 同時にカズマの身体が、アイラの身体の動きに引きずられて大きく宙を舞う。

 カズマは襖に叩きつけられ、襖が敷居から外れて向こうへ倒れ、傍に立っていた燭台も一緒に倒れる。

 蝋燭の火が、襖に移り始める。カズマが呻きながらも起き上がった。

「動くな!」

 アイラが怒鳴る。

「罪を浄めると言うのなら、邪魔をするな。邪魔をする気なら、手加減はしない」

 怒鳴ったときとは逆に、冷たい声で、淡々と語るアイラ。その声に込められた威は、人の娘であるというだけで出せるものではない。

 首元のスカーフを外し、“門の証”を露わにしてアンジェと対峙する。

 険しい顔で短剣を構えるアンジェと、冷たい表情のアイラ。

 煙の臭いが鼻をつく。火の爆ぜる音がする。火が広がっているのだ。

 しかし対峙する二人は、周りに注意を向けていない。ナナエもカズマもサヤも、イナでさえも、アイラとアンジェに目を向けていた。

「あなたは私の兄を殺した!」

「……ああ、そうだ。後悔はしていないよ。だって、殺さなければ、殺されていたもの」

 アンジェの叫びに、アイラはごく当然の事を言うような口調で答えた。

 アンジェの顔が歪む。

「罰を与えよ、弾劾者。浄めるために、ふさわしき罰を」

「……アンジェ。それは本当にあんたの意思か」

 ナナエの言葉に重ねるように、アイラはアンジェに言葉を投げる。

「私の意思でなくて、何だと言うの」

「メオンは“狂信者”だった。あんたも知っているはずだ」

 “狂信者”。その言葉に、アンジェの表情が揺らぐ。

「それは……ええ。……いいえ、いいえ、そうであっても! あなたが兄さんを殺したことに変わりはない!」

 アンジェの叫びに、アイラは表情を動かさない。

「そうしなければ殺されていた。例えあのときに戻れたとしても、私は同じことをするよ。死にたくないから」

「あなたは、自分さえよければそれでいいんでしょう!」

「……別に」

 アンジェが短剣の切っ先をアイラに向ける。アイラは動かなかった。じっとアンジェを見つめているだけだった。

 剣先は、真っ直ぐにアイラの心臓に向けられている。アイラはちらりと短剣に目を向けたが、すぐにアンジェに目を戻した。

「……そんなに私を殺したければ、刺してみるといいさ。そうして知るといい。自分が一生負うものを」

 その言葉に背を押されたのか、アンジェが短剣を構えて足を踏み出す。

 一歩。二歩。アイラはそれでも動かなかった。ただ立って、アンジェを見据えている。

 その視線を真正面から受けて、アンジェは一瞬足を止めた。その手が小さく震えている。

 キリ、と歯を噛んで、アンジェは叫びながらアイラに短剣を突き立てた。

 左胸に切っ先が刺さる寸前、アイラは少し身体を捻っていた。

 ほんのわずか、狙いをずらしただけだったが、それだけで十分だった。

 鋭痛。短剣は、アイラの左肩を深々と貫いていた。アイラはわずかに顔を歪め、短剣を掴むアンジェの手に、自分の右手を重ねる。

 アンジェの手は冷たい。傷が酷くなるのは分かっていたが、アイラはアンジェの手を取って、更に深く短剣を押し込んだ。どこか麻痺しているのか、痛みはさほど感じない、

 耳元で、アンジェが息を呑んだのが分かった。

「人を殺したなら、この感覚は一生ついて回る。刃を突き立てたときの感覚も、相手が死んでいく感覚も、あんたは一生背負って生きていく。その覚悟はあるか」

 アンジェの手が震えている。アイラが手をどけると、アンジェの手も短剣から離れる。

 すとん、と、アンジェが膝を付いた。その顔は青ざめている。

 右手でアンジェを抱き寄せる。鈍く傷が痛んだ。肩に突き立った短剣の周囲は、赤く染みになっている。短剣が突き立ったままになっているせいか、出血は傷の程度に比べて酷いものではない。

「アンジェ」

 名を呼ぶ。

 周囲では、次々と炎が燃え広がっている。襖に、柱に。それに気付いて騒ぐ声が聞こえていたが、アイラはそれらに注意を向けていなかった。

「私はね、何かないと、どうにも自分の気持ちをちゃんと言えないんだよ。今なら言えると思うから言うけれど、メオンを殺したことは後悔していない。そうしないと、私が殺されていたから。……でも、あんたからあんたの大事な人を奪ったのは、すまないと思っている」

 自分だって知っている。大事な人を奪われる辛さも、その痛みも、どこにぶつけていいのか分からない、暗い感情も。

 その感情を知りながら、自分はアンジェに同じ思いを味合わせた。

 そのことは、すまないと思っている。

 熱がアイラの背に触れる。いつの間に火が回ったのか、奥の部屋は火に囲まれていた。なぜこれほど火の回りが早いのか。そんなことを一瞬思ったが、考えている場合ではない。

「おお……大主様はお怒りじゃ……早う、早う、贄に、浄めを……」

 アンジェは魂が抜けたようにぼんやりとしている。その身体を支えながら、アイラはナナエに顔を向けた。

「私の身は父なるアルハリクに捧げられたもの。死後には魂も、父なる神のものとなる。他の神に捧げることなどできるものか。それに、彼女は円環の神の徒。他の神への奉仕を、円環の神は許さない。私達は贄にはなれない」

 叩きつけるように宣告する。祭壇に灯された蝋燭が、風もないのに手の幅程の高さまで燃え上がった。

 かたかたと燭台が揺れる。その揺れは段々と激しくなる。香の匂いと煙の臭いが混ざりあう。

 アイラの言葉と態度に、ナナエはさっと怒気を顔面に上らせた。

「罰当たりが! 大主様が罰を与えようぞ!」

「罰当たりはどちらだ。供物を捧げる行為は理解もしよう、だが供物欲しさに人を騙し、人の意思を奪うようなことを、お前達の神は容認するのか!」

 瞬間、祭壇に立てられた蝋燭が大きく揺れ、誰も手を振れないのに次々と倒れる。

 白木の祭壇にはたちまち火が映り、パチパチと音を立てて燃えていく。

 アイラは右腕でアンジェを支え、痛む左腕を壁に向けて伸ばした。

「玉破!」

 “門の証”が淡く光り、限界まで威力を高めて放たれた神の矢は、一撃で壁を打ち破った。