二人の決意
「おやお帰り、アイラ。随分遅かったじゃないか。夕飯食べるかい?」
宿に帰ったアイラに、アネットの声が飛んでくる。
「……はい、頂きます」
素直に言葉を返す。
トレイに、パンとサラダを二人分と、茶の入ったポット、そしてカップを二つのせ、バランスを取りながら部屋まで向かう。
部屋ではすっかり熱も下がったアンジェが本を読んでいた。表紙に黒い布が貼られたこの本は、部屋に置いてあるものだ。一応金文字で題も書いてあるのだが、やたらと装飾が施された飾り文字は、アイラには読むことができない。
加えて本の内容に興味のないアイラは、この本に触ったことすらないが、アンジェにとっては面白いのか、夢中で読んでいる。
声をかけると、アンジェは栞を挟んで本を傍に置く。
「……これから、どうするつもりだ?」
珍しく、アイラが自分から問いかける。アンジェが、何を言い出すのかと言いたげな視線を向けると、灰色の目が気まずそうに逸らされた。
思わずアンジェは小さく笑みを零し、アイラはむっつりとサラダを口に運んでいた。
「……私を殺すなら、いつでも――」
「もう、思ってないわ。そんなこと」
アンジェの言葉に、カップに茶を注いでいたアイラの動きがぴたりと止まる。傾いたままのポットからは、途切れることなく茶が注がれている。
「ちょっと! 溢れてる溢れてる!」
アンジェに言われ、慌ててポットを置くアイラ。零れた茶を拭き取り、改めて茶を一口飲む。
「……殺すつもりじゃなかったのか」
「そりゃ、あなたがしたことは、正直言って今はまだ許せるとは思えないけど、でも、兄さんのしたことは、それ以上に許してはいけないことだった。……もし、あなたが良いなら、もうしばらく一緒に旅をさせてほしいんだけど」
「どうぞご自由に」
返答は実にあっさりとしたもの。もっと何か言われるのではないかと身構えていたアンジェとしては拍子抜けである。
「反対しないのね」
「……する理由も思いつかない。だけどなぜ、旅をしたいと?」
「私ね、在家聖職者になるまで、神殿から出たことなかったの。……神殿にいたときは、私達は絶対に正しくて、神の教えは守られていると思ってた。でも、違った。正直、今、レヴィ・トーマが絶対だと思えなくなってる。だって、私達は円環を作らなくてはならないのに、兄さん達の行動は、どう考えても間違ってる。それに……あの、司教様だって、あんなこと、言うべきではないと思うし。何と言うか、神殿は、このままでいいのかな、って思うこともある。だから、もうしばらくあなたといて、考えを整理したいと思って」
ふうん、と頷き、ぬるくなった紅茶を啜るアイラ。ついでにパンをちぎって口に入れる。
「ま、好きにすればいいさ」
アイラとしては別に断る理由はない。懐にも余裕はあるから、当分は仕事をしなくても、のんびりと流れ歩くことができる。
空の食器をトレイに乗せ、階下に持って降りる。そのついでに、アネットにそれとなく、何か変わったことはなかったかと尋ねてみたが、特に何もなかったらしい。
(今のところ、あの似非司教は何もしてはいない、のか?)
このまま何事もなく過ぎればいいのだが、と付け加える。
別にアイラは、ヨルク司教の胸ぐら掴んで怒鳴りつけた挙句、異教徒呼ばわりをしたことを後悔しているわけではない。むしろもっとやれば良かったかと思っているくらいだ。
しかし向こうが司教という位に物を言わせて、アイラに何か仕返しをしないとは限らない。いや、される、と思っていた方がいいだろう。暴言に加えて異教徒呼ばわりだ。プライドを傷付けられ、今頃、ヨルクは腸が煮えくりかえっているだろう。
アンジェが巻き込まれなければいいのだが。
(そうなったら、守るだけだ。自分も、アンジェも)
一人、決意を固める。
アンジェに何か言うつもりはない。
司教職にある人間に喧嘩を売ったのはアイラであって、アンジェではない。アンジェはこのことと関係がない。そう思っている。
仕返しを受ける可能性があってなお、一緒に旅をすることを断らなかったのは、単純に、守る人間が目の届くところにいた方が守りやすいからだ。
(いっそあの似非司教には、釘でも差しておけば良かったか?)
そんなことを思いつつ部屋に戻る。水音が断続的に聞こえてくるところからして、アンジェはどうやら入浴中らしい。
ベッドに寝転がったアイラは、いつしかとろとろと微睡んでいた。
ドアが開く音で起き上がる。アンジェが驚いた顔でアイラに視線を向けてきた。
「起きてたの?」
「……いや、寝てた」
「あなた結構眠りが浅い方なの?」
「さあ。何かあればすぐに起きるのは、もう、癖なんだろうけど」
「癖、って……」
スカーフの下で、アイラはわずかに頬を緩めた。
タキと暮らすようになって、まず初めに叩き込まれたことがこれだった。周囲の気配や音に反応し、すぐに動けるようになること。
初めは中々きつかったが、いつしかそれは当たり前の行動として、アイラの身体に染み込んでいった。戦うための技と同じように。
今ではもう、わずかな音か気配がすれば、はっきりと目を覚ますことができる。
そんなアイラを指して、野に生きる獣のようだと言ったのは、誰だったか。
アンジェと入れ違いに風呂に向かう。浴槽は通常のものより小さめだが、小柄なアイラにはむしろちょうどいいくらいだ。
湯に肩まで浸かりながら、アイラは初めてじっくりと、右腕の刺青を眺めた。文字が絡み合ったような意匠は、左腕に入れられた『玉破』を示すものと同じだが、その形は微妙に異なる。
この刺青は、“門”が使う“神の武器”の一つ、『円盾』を示すもの。
「『円盾は神の盾。“門”がそれを願うならば、いかなる強者の攻撃も、この守りを破ること能わず。』」
聖典の一節をそらんじる。以前、メオンにも話したことがある箇所だ。
(多分、あの男は、まともに聞いてはいなかったのだろうな)
本人が死んでいる以上、真相は分からないが、おそらくあのとき、彼は確認したのだろう。アイラが自分達にとっては異端であることを。
思い返せば、思い当たる節はいくらでもあった。自分が気付かなかっただけで。
もっと早く気付いていれば、別の対処もできたのだろうか。
(……別の対処、とは言っても、大したことはできなかっただろうけど。せいぜい、関わりを持たないようにするくらいで)
ぼんやりと考え事をしていたせいか、少しのぼせてしまったらしい。下着姿で脱衣所の床にうずくまる。
ぼうっとした感覚が抜け、少し肌寒さを感じるようになってから服を着、部屋に戻る。スカーフと頭に巻いていたバンダナは手に持って。
アンジェはベッドの上でまた本を読んでいた。
その横で、黙ってベッドに寝転がると、柔らかなシーツが頬に触れた。