二人目の来客
「私がジョン・ドリスを追うのは……ある家族のためだ。……その家族は、最近、やっと全員が揃った。母と父と、娘と息子が。その幸せな家族が、裏社会と関わりのある人間と、親戚だと知れたら? ……どうなるか、なんて、それこそ、火を見るよりも明らかだろう?」
「お前さん、他人はどうでもいいんじゃなかったのかい?」
「……どうでもいいよ。それは変わらない。これは、私が個人的にやってることだ。彼らは関係ない」
「どうでもいいなら、なぜ追う? お前さんにとって、他人はどうだっていい存在だろう? その家族がどうなったって、ジョン・ドリスが何をしたって、お前さんには関わりないことじゃないか。無視したっていいはずだろう?」
アイラは少しの間、黙ってユンムの言葉を胸の内で反芻していた。やがて、彼女の口から、ゆっくりと言葉が零れ始めた。
「結局、食事と言いつつ、それを確かめに来たんだろう? 元締の意向かどうかは知らないが。……私はあの家族と関わった。関わった以上、放っては置けない。それだけだよ。……それに、せっかく家族が揃ったんだ。もう一度、失わせる必要はないじゃないか」
ユンムの表情が緩む。
「なるほどな。お前さん、ずいぶん人間らしくなってきたじゃないか」
「……それは最近、よく言われる」
アイラは、にこりともせずに言葉を返した。“人間らしい”という言葉の意味は、まだよく分からないのだが。
「さて、では失礼する。ゆっくり休んでくれ」
ドアが閉まった瞬間、その音に重ねるように、アイラが一つ息を吐いた。
「……疲れた」
額の汗を拭う。
ユンムの武術の腕がどれほどのものか、アイラは詳しく知らないが、それでも、おそらくはタキとさほど変わらぬ腕だろう、とアイラは踏んでいた。
そんな人間と差し向かいで、威圧されずに話すために、アイラは珍しく、かなり気を張っていた。
やがて膳を下げに、女中が入って来た。リルともう一人、年配の女中が空の膳を持って、部屋を出て行く。
アイラは両腕を上げて、ぐうっと伸びをすると、今度は座ったまま、ゆっくりと身体を動かし始めた。
滑らかに、アイラの腕が空中で動く。一通り腕を動かして、アイラは満足気な表情を口元に浮かべた。
薬の影響は残っておらず、身体は思い通りに動く。
(こうでないとな)
立ち上がり、足を肩幅に広げる。
「どうしたの?」
「ま、見ててごらん」
珍しく、含みのある口調で答えると、アイラは胸の前で拳を構えた。
まっすぐに拳を突き出し、次の瞬間には引き戻す。腕で身体をかばいつつ、足は蹴りを繰り出す。
とん、と足を踏み変え、身体を回転させながら回し蹴り。その勢いのまま、左手の拳を突き出す。
屋内でこんなことを始めたアイラに、初めは呆れた視線を向けていたアンジェだったが、その舞にも似た動きは、アンジェを釘付けにするには十分なものだった。
腕を、足を、いくら動かしても、アイラの位置は初めと変わらない。
一通り全身を動かすと、アイラはゆっくりと動きを止め、軽く息を整えた。
「こんなものか」
もう一度伸びをして、壁にもたれて座り込む。
そのとき、ドアが勢いよく開かれた。
瞬時に、アイラはアンジェを庇うような位置に立ち、ドアの方を見る。
「アイラってぇのはどっちだ!」
飛び込む、という形容が相応しい様子で入って来たのは、赤い髪を短く刈り込んだ男だった。
男の灰色がかった緑の目は、憤怒の色を宿している。
「アイラは私だ。何か、用か」
じろりと男がアイラを見下ろす。一拍置いて、男の口から笑い声が漏れ出した。嘲りの籠もるその笑いに、アイラがぴくりと眉を上げる。
「んだよ、ただのほっそいガキじゃん。どんなヤツかと見に来たってのに。はン、こんなガキが、人なんざ殺せるもんか」
「……元締に迷惑をかけたくなかったら、その口閉じて、さっさと失せろ。……今なら、貴様の言動、聞き流してやる」
目には確かな怒りを浮かべ、それでもアイラは相手にそう促した。おそらくはこの男もジエンの部下だろう。相手がその辺のならず者なら、アイラも拳の一発くらいは見舞っていたかもしれないが、ジエンの部下にそんなことをしては、後々面倒なことになりかねない。
「あぁ? ガキの癖に、生意気な台詞吐くじゃん」
「……私はとっくに成人している」
「あーあー、そういうごっこなワケね? はいはい。そういうのは家で――」
男が言い終える前に、アイラが一歩踏み込んだ。骨を砕くその拳は、真っ直ぐに、男の喉元へ向けて突き出される。
しかし、その拳は喉首ぎりぎりで止まっていた。
「あっははは、何、バカ? ぜんっぜん届いてないんですけど!」
「そのまま喉に打ち込んでくれて良かったのだがな」
男が驚いて振り返る。いつの間に来たのか、ユンムが厳しい顔で男を見ていた。
「これだから元締は、お前には任せられないと言ったのだ。相手を見た目で判断して侮る、距離を詰められても対応できない、加えて己を過信する。なぜ拳が届かなかったのか、彼女がなぜ寸前で止めたのか、そんなことも理解できないのか、ディル? いやまさか、本当に届かなかったと思っている訳では、あるまいな?」
ユンムの言葉を聞いてもなお、納得しかねる様子のディルの両肩を掴み、ユンムは言葉を重ねる。
「本当に届かなかったと思っているのなら、このまま喉を砕かれろ」
「なっ……何でだよ!」
「今のままでは、どの道お前は死ぬ。今か、いつかの違いだ。自分の力量を知りもせず、ただ向かっていくのでは野良犬と同じだ。こちらとしても、飼い犬に手を噛まれるような事態は避けたいのでな」
「そのことだが、一ついいだろうか」
未だディルの喉に拳を向けたまま、アイラが口を挟む。
「野良犬は、躾ければいいと思う」
「ほう、つまりは?」
「一度、こいつと模擬戦をしたい。流石に馬鹿にされて腹も立ったし、それに、こいつ以外にも、私があの男を始末することに、反感を持つ人間はいるんじゃないか? 模擬戦で結果を出せれば、私は自分の力量を、今一度示すことができるしな」
「なるほど。良かろう。すぐに準備をしよう。こいつは一旦引き取らせてもらう」
ディルを従え、ユンムはその場を立ち去った。
→ 模擬戦