交わらぬ思い

 夜明け前、ふと目を覚ましたアンジェは、アイラの枕元に、ナイフが置かれているのに気が付いた。

 寝る前に、アイラが灯していた弱いランプの光がナイフに反射している。

 アイラがこのようにして寝るのは初めてだ。自分が仇だと思われていると、分かっているのだろうか。

 心臓が高鳴る。外に聞こえているのではないかと思われるほど。

 アンジェの手がナイフを取り上げた。鞘から抜き、眠るアイラに刃を向ける。

 このままナイフを突き刺せば、という思いが頭をよぎる。しかし、メオンが“狂信者”だと知った今、アンジェの胸には迷いが生じていた。

 メオンはアイラを殺そうとした。彼女がレヴィ・トーマの信者でないというだけの理由で。

 だからこそ、アイラはメオンを殺したのだ。自分が死なないように。

 ナイフを握る手に力が入る。殺せ、と囁く声と、殺すな、と囁く声を、アンジェは同時に聞いていた。

 迷う内に、アイラがのっそりと起き上がる。眠たげな目でアンジェと、彼女が手に持つナイフを見る。

「刺してみるか?」

「寝惚けてるの?」

「別に。眠いだけ」

「それを寝惚けてるって言うんじゃない」

 アンジェがそう言う傍から大欠伸のアイラ。

「それより……使うのか? それ」

「使ったところで、どうせ大人しく刺されたりしないんでしょ」

「そりゃ、死にたくないもの」

 さらりと言ってまた横になるアイラ。どうやらまた寝直すつもりらしい。一体何のために起きたのだろうか。

「……私、どうしたらいいのか分からないの。兄さんが“狂信者”だってあなたに言われて……『読取』で、それを確かめて……でもやっぱり信じられなくて……」

「……好きにすればいいさ。メオンを正当化するなり何なり。別に――」

 アイラがそう言いながら再び眠りに落ちたせいで、アンジェには後半部分は聞き取れなかった。

 しかし、『メオンの正当化』という言葉は、アンジェの胸に深く刺さった。

(私は、兄さんを正当化したいのかしら)

 自問してみるが分からない。“狂信者”の正当化は、されるべきではない。そう頭では理解していても、兄を殺したアイラを許せない。

 アンジェの手から、ナイフが滑り落ちた。

 翌朝、珍しくアンジェより早く起きたアイラは、炉に火を入れ、朝食を作り始めた。と言っても手の込んだものは作れない。

 干した米と刻んだ干し肉、集落の近くで見つけた山菜を入れて煮る。とりあえず、見た目はどうやら粥らしいものになった。

 やがて、アンジェも目をこすりながら起き上がった。粥を渡すと一口啜って妙な顔になる。

「あなたこれ、何入れたの?」

「……干し米、干し肉、山菜」

「それだけ?」

 ん、と頷くアイラ。

「これ、全然味がしないわよ」

「……こういうものかと」

 その答えに思わず脱力する。

「病人食じゃないんだから。ちょっとそれ、貸して」

 アンジェの手で調味料が追加され、味のない粥はようやく食べられるようになった。

「あなた料理したことないの?」

「あまりしない」

「せめて味付けくらいはしなさいよ」

 そう言いつつ、そういえばこれまでの食事は、宿で食べたものを除けば、パンや干し肉を炙っただけのものだったと思い出すアンジェ。あまりどころか、全くしないのではないかと内心で突っ込む。

 朝食を終え、簡単に片付ける。

(さて、これからどうしようか)

 過去を清算した今、アイラ自身がしなければならないことはない。

 選択肢がないわけではない。ウーロに留まることもできる。トレスウェイトに留まることもできる。今まで通り、旅烏として流れ歩くこともできる。

 だが、何をしたいのかと聞かれても、答えが見付からない。

(何もないんだよな、自分の中に)

 そのことは、以前から分かっていた。

 しかし、どうするという考えも持たず、ここまで生きてきた。どうにかしなければならないとも思わなかったから。

 時間ばかりが過ぎていく。気付けば太陽は高く昇っている。もう昼なのだ。

「あなた、いつまでここにいるつもり?」

「さあ。もう発つかもしれないし、もうしばらくいるかもしれない」

 その答えに、アイラの後ろでアンジェが眉をひそめる。

「あなた、何か考えて行動したこと、あるの?」

「……そりゃ、あるとも」

「そうは思えないけど」

「そんなに?」

  首をかしげるアイラに、アンジェが溜息をついた。

 二人は昼をかなり過ぎた頃にランズ・ハンを発った。コクレアの宿屋に戻ると、アネットが笑顔を見せる。

「お帰り。無事みたいで、良かったわ」

「……戻りました」

 前と同じ部屋を用意してあると言われ、アイラはありがとうございます、と頭を下げた。

 部屋は綺麗に掃除がされていた。小さな皿に盛られたリツ(中に干し果物の入った琥珀色の飴)が、テーブルの上に置かれている。

 アイラはリツを一つ取って口に入れた。懐かしい味が、口の中にふわりと広がる。甘い飴を噛み砕くと、歯はふにゃりと柔らかい果物に触れた。

 果物の甘さは、飴の甘さとはまた違う。

 二つ三つリツを食べた後で、アイラはぼんやりと何か考え込んでいるアンジェを置いて部屋を出た。向かった先は裏手の小さな空地。

 幾度か短く息を吐いて、アイラは足を肩幅に広げた。ゆったりとした動きから、拳や蹴りが繰り出される。

 しかしその動きは普段よりも鋭さに欠けている。加えて蹴りを放った瞬間、アイラの顔はわずかに歪んだ。

 ふう、と息を吐いて座り込む。『力ノ試』で受けた傷は、見た目は治っていても、実際は違うらしい。切られた場所、特に腹が鈍く痛む。

 耐えられないほどの痛みではない。それでもしばらくは、この痛みと付き合わなければならないだろう。

 いざというとき、この身体でどこまで動けるだろうか。少しばかり不安になる。

(まあ、なるようになるか)

 再び立ち上がり、今度は探るように、ゆっくりと身体を動かす。どれだけ動かすと痛むのか見極めるために。

 神の武器を全て使えるようになったとは言え、それに頼りっぱなしになる気はない。まず使うのは自分の身体。神の武器を使うのは、自分の身体だけで切り抜けるのが厳しいと判断したときだけ。

 短い呼吸を繰り返すアイラの動きが、段々と勢いを増してくる。当然痛みもあるが、気にせずに身体を動かす。

 右手で急所を庇いながらの蹴り。次いで大きく踏み込み、防御に使っていた右手を握って突き出す。

 一歩下がってからの左足での蹴り。足を引き戻した直後、右足を軸に身体を回転させて左足で蹴る。

 その間、手は急所を庇う位置に固定されている。

 どれも昔、タキに叩き込まれた動きだ。数えきれないほど何度も繰り返し、今では一連の動きは全て身体に染み付いている。考えなくとも自然と動くほどに。

(そろそろ、戻るか)

 やや息を切らせ、痛みに顔をしかめつつ部屋に戻る。

「どこに行ってたの?」

「外に」

 アンジェの問いに簡潔に答え、風呂で汗を流す。

 やがて、風呂からあがり、ベッドに横になったアイラに、横から声がかかる。

「あなたはどう思ってるの? 兄さんを、殺したことを」

 静かな、真剣な声。少し考えて、答えを返す。

「……何とも、思ってない。殺されたくなかったから、殺した。それだけ。……それで恨むなら勝手にすればいい。あんたが私のことをどう思おうが、私の知ったことじゃない」

 アンジェには、残酷に聞こえるだろう。思った通り、アンジェの瞳に一瞬、強い光が揺れた。

「なら、後悔も、してはいないの?」

「……後悔? さあ、してないだろうね。……もし、また同じ状況になったら……私はきっと同じことをするよ。死にたくないから」

 あっさりと答えたアイラに、アンジェが絶句する。彼女はしばらくの間何も言わず、アイラをきっと見据えていた。

 しばらくして、アンジェが部屋を出て行く。ドアを閉める音が、やけに大きく響いた。

 アンジェに言ったことは、アイラの本音だ。

 裏切られ、命を狙われたことは何度かある。その度にアイラは、相手を『敵』と判断して殺してきた。相手を殺さなければ、殺されるのは自分だと分かっていたから。

 やりすぎだと言われたことも何度かある。しかしアイラにとっては、『敵』はそれくらいのことをしなければならない存在なのだ。死んでしまえば、アイラという人間はそこで終わってしまうから。

 どれほど批判されようと、アイラはこの考えを変えるつもりはなかった。

 

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