依頼と条件

 部屋に戻る途中、アイラは珍しく疲れた表情を浮かべていた。部屋に着くと、用意されていた茶を飲み、一つ息を吐く。

「……疲れた」

「珍しいわね。あなたが疲れるなんて」

「ん。あの人は、強いから。多分、タキと同等か、それ以上には」

 その評を聞いて、アンジェはふうん、と頷いていた。

「蹴られたところは、大丈夫?」

「ああ。痣くらいには、なってるかもしれないけど」

 傍から見たら、蹴られて吹っ飛んだようにも見えただろうが、実際は蹴りが当たった瞬間に、アイラは自分から大きく跳んでいた。そのため、見た目ほど身体へのダメージは大きくはない。以前、タキとの稽古でも使った手だ。

 何のかのと話していると、サグが、旦那様がお呼びです、と声をかけてきた。

 アンジェに、待っているように言い置いて、アイラはサグの後をついて行く。

 サグに案内された部屋では、ジエンとユンムが待っていた。二人に頭を下げ、用意されていた座布団に座る。

「……それで、依頼は」

「内容は、ジョン・ドリスの殺害。報酬は五十ジン。受けてくれるか。……もし、どうしても無理や言うんやったら、断ってくれてかまへん」

 続いた言葉に、アイラは目を丸くしてジエンを見た。

 裏社会の依頼は、聞いてしまえば後戻りできない。依頼の内容を聞いて、気に入らないから受けない、というのは許されないのだ。聞けば依頼を受けなければならない。なぜなら、裏社会での依頼は、基本的に法に反するものだからだ。依頼の内容は、誰かの殺害や何かを盗むことが基本で、それは、もし表の社会に知られれば、依頼主にとっては身の破滅。故に、裏社会の依頼は、聞けば断ることができないのだ。

 ジエンもそれは知っているはずだ。それなのに、彼はわざわざ、断ってもいい、と、アイラに言質を与えている。

「……断っても、構わない、と?」

「せや。なんせ自分には無理言っとるわけやしな」

「なら初めから、私に依頼する必要はないのでは? 元締のところなら、優秀な人がいくらでもいるでしょうに」

「それがな、腕の立つ人間はほとんど向こうに知られとる。そんで、顔を知らん奴をさし向けてみたんやけど、あっさり殺られてしもたわ」

「私も、顔を知られているのですが」

「ああ。せやけど、自分は別に裏の人間やないやろ。こっちが使えん方法も、自分やったら使える。それに、腕も申し分ない」

 ジエンの言葉を、黙って反芻する。

「……依頼は受けます。その代わり、二つ頼みたいことがあります。一つは、連れの安全を、保証していただきたい」

「分かった」

 返答は即座。

「もう一つは、報酬を、十ジンにしてください」

 この、思ってもみなかった要求に、ジエンは眉を上げた。人一人殺して金貨五十枚。かなり高値を出したのだが、目の前の娘は、五分の一でいいと言う。

「訳を聞かせてもらおか?」

「旅烏の身で、金貨を五十枚も持っては歩けませんから」

 アイラの答えはあっさりしていた。その答えに、横で聞いていたユンムが失笑を漏らす。少し遅れて、ジエンも笑い出した。

「せやな。自分、旅暮らしやったな。ほんなら払うんは十ジン。連れとる聖職者の姉さんの安全と、ここにおる間の費用を四十ジンの分に含めるんでどうや?」

「その条件で、受けさせていただきます」

 アイラがそう答えると、ジエンの瞳に、抑えられてはいたが、確かに喜色が浮かんだ。

 鈴蘭の部屋の前まで戻ってくると、中から話し声と笑い声が聞こえてきた。声をかけてドアを開けると、アンジェと女中のリルが何やら喋っていた。

 笑うアンジェを見て、ふと、ここまで楽しそうなアンジェを見たことがあったろうかという疑問が頭をよぎる。

「どうかした?」

「いや、別に」

「あら、ごめんなさい。ずいぶん話し込んじまって。失礼します」

 アイラが戻って来たことで、時間が経っているのに気付いたのだろう。リルは少し慌てた様子で入れ替わりに部屋を出て行った。

 壁に背を預けて座るアイラに、アンジェが紙に包まれた菓子を渡す。それは先刻リルが持ってきたもので、酸味のある大粒のラカゥの実を白餡で包み、それを更に求肥で包んで俵型に成形したものだった。この辺りではカンジェ、更に東の島々では繭玉と呼ばれる菓子である。

 一口かじった途端に溢れ出した酸っぱい果汁に、アイラは思わず顔を歪めて口元を押さえた。それでも果汁が甘く作られた餡と混ざれば酸味は薄れ、甘酸っぱい味が口に残る。

「話、何だったの?」

「依頼の話。まあ、アンジェが関わることはないだろうし、身の安全の保障はしてもらったから、好きに遊んでいるといいよ。確かこの辺りには神殿もあったはずだし……リルかサグに聞けば場所も分かるだろう」

「あなたは知らないの?」

「ちゃんとした場所までは知らない。……レヴィ・トーマの神殿には、近寄らないようにしているから」

 かつてのアンジェならば、その理由が分からなかっただろうが、今の彼女にはその訳も理解できた。アイラは警戒しているのだ、“狂信者”を。

 教会に近寄らないのは、“狂信者”の存在を警戒してのことに違いない。

 ふと、アンジェの脳裏に、コクレアの司教、ヨルクのことが浮かんだ。ランズ・ハンで見たことを忘れろと言った、彼もまた、“狂信者”だったのだろうか。

 そう漏らすと、聞こえたらしいアイラは少し顔をしかめた。

「あのも……あの男は別段、狂ってはいないよ。最も、『岩男』ではあったけれど」

「『岩男』?」

 耳慣れない発音を問い返すと、アイラは少しの間きょとんとアンジェを見返した。それから納得したように一つ頷く。

「頭が硬かった」

 一言で意味を伝えると、アンジェは何がおかしいのかくすくす笑った。

『岩男』は、主にハン族の子供らが使っていた言葉である。大抵は自分の要求が通らぬときに、けちだという代わりに、からかいも込めて言っていた。

 使うつもりはなかったのだが、つい口から出た言葉に、アイラはスカーフの下で微苦笑を浮かべた。

 ごそごそと荷物を探って、紙とペンを取り出し、記憶を頼りに何やら書きつける。やがて書き終わると、それをアンジェに放った。

「これで、大体の場所は分かるだろう」

 アンジェが紙に目を落とすと、そこには大雑把な地図が描かれていた。

「ありがとう」

 受け取って、懐にしまいつつ、礼の言葉をかける。アイラの方はそっぽを向いて、何か口の中で呟いた。

 

→ 陰の石碑