信用と信頼

 部屋に入ると、アイラは首を巡らせて、二人の方を見た。リイシアと並んでいるアンジェを見て、アイラは一瞬、おや、とでも言いたげな表情を見せた。しかしその表情はすぐに消え、彼女は身体を起こすと両足をベッドから下ろし、ちょうど、ベッドに腰掛ける格好になった。

 アンジェがトレイを手渡す。

「ありがとう。ああ、そうだ、リイシア」

 名を呼ばれ、少女がアイラの顔を見る。

『ありがとう』

 えへへ、と照れた笑みを返し、リイシアはアイラが勧めた椅子に座った。

「へえ、カルウか」

 トレイの上のものを見たアイラがそんなことを言う。かといって不満気な様子ではない。

「ええ。でもあんたは病み上がりなんだから、無理して食べちゃ駄目よ」

「分かってるよ」

 そう会話しながら、アンジェは、カルウの上部を薄く切り、そこにたらりと小さな壺に入った蜂蜜を垂らした。

 蜂蜜が生地に染み込んだのを見て、切っておいた上部を、蓋をするようにかぶせ、そのままアイラに手渡す。

 同じようにしたものをリイシアにも渡し、最後にもう一つ、自分のために同じものを作る。

「……慣れてるな」

 ぼそりとアイラが呟いた。

 パンを平らに、薄く切るのは、なかなか難しい。柔らかな生地は固定していなければすぐに歪むし、そうかといって強く押さえては、パンそのものが潰れてしまう。そのため気付けば真っ直ぐ切ったつもりが斜めになっている、というのは、ままあることである。

 アンジェの切ったパンは、少し歪みはあったが、面はきれいに平らになっていた。

「昔、この辺りに親戚が住んでてね。よく遊びに行ってたから、そのときに覚えたのよ」

 そう語るアンジェの口調は、どこか懐かしげだった。

 蜜入りのカルウを頬張ると、柔らかな生地の中から、とろりとした甘い蜜が溢れ出した。

 あっという間にカルウを腹に収め、コップに注がれていた茶を飲み干したアイラは、足をベッドの上に戻し、ぼんやりと外を眺めていた。

 ノックの音。それにアイラは、はっとした様子で返事を返した。

「っと、邪魔したか」

 顔を見せたのはクラウスだった。今日も遊び人のような恰好をしている。

「いや。何か用?」

「や、これといって用はねーけどな。ちょっと顔見に来ただけだよ。その様子だと、大丈夫そうだな」

「まあね」

 それを聞くと、クラウスはまたひらりと手を振って、部屋から出て行った。

 やがて、食事を終えた二人も出て行き、アイラは一人、部屋に残された。

 ノックの音がしたかと思うと、ついさっき出て行ったはずのアンジェが、険しい顔で入って来た。その表情は、アイラを仇としているときの顔によく似ていた。

「聞きたいんだけど、あなた、ノルトリアを出た後で、私に聞いたわよね。クラウスさんの傷に、毒が盛られている様子はなかったかって。あなた、向こうが毒を使ってくることに、気付いてたのよね、そのとき。あなたは毒にやられるかもしれないことを知っていて、それでもあのとき、森で残ったの?」

「いや。それは違う」

 言下にアイラは否定した。そして、それまで話さなかった、街道沿いの小屋での一件を語った。

「毒にやられた様子はなかったかと聞いたのは……刃に、何か塗られていたように見えたからだよ。……それが毒かどうか、はっきり分かっていた訳じゃないけど、ああいうものに塗るなら、十中八九、毒だろうと思っただけ。……森では、まさか毒を使ってくるとは思わなかった。言っただろう、毒が塗られてなけりゃ、もっと早く終わらせてたって」

 ふっとアイラは一息吐き、アンジェから視線を外して窓の外に目を向けた。

 アイラの目線の先では、数人の子供がボールで遊んでいる。

 そのうち、一人がボールを受け損ね、妙な方向に弾かれたボールは、水飛沫と共に近くの池に落ちた。

 子供らは何か揉めている。おそらく、誰が池に入るか言い合っているのだろう。

 水の上でさざ波に揺すられているボールを見ているアイラの細い目が、不意に大きく見開かれた。

 目の前の光景が、記憶と重なる。

 そしてアイラは思い出した。幼い自分が池に落ちた理由と、それを助けたのが誰だったのか。

 池に落ちたのは、ボールを取りに行ったからだ。そして、自分を助けたのは――。

「アイラ?」

 名を呼ばれ、肩を叩かれて我に返る。アンジェが怪訝そうにアイラの顔を覗き込んでいた。

「どうしたの? ぼんやりしちゃって」

「……いや、何でもないよ」

 そう答えるアイラの表情は満足気で、口元には淡い、引きつったような笑いの影があった。

「どうしてあなたはいつもそうなの?」

 突然の、押し殺すようなアンジェの言葉に、アイラは片方の眉を跳ね上げた。

「何が?」

「どうしていつも一人で、何もかも背負い込もうとするの?」

「……別に、背負い込んでるつもりはないけど。私だけのことだから、話さないだけ」

 アイラの答えは、いつものことだがあっさりしたもので、尚且つ、どこか他人を拒絶するような響きが含まれていた。

 まるでアイラの周りには、透明な壁があるようだった。

「だから、どうしてそうやって、自分の中に隠しておくのよ! そんなに周りが信頼できないの?」

「……信頼しないから話さないんじゃないよ。今は話す気がないだけ。必要だと思ったら、そのときに話すよ」

 アンジェが黙り込む。気配が離れたと思うと、パタン、とドアを閉める音が聞こえた。

(信頼、ねえ)

 旅をするようになってから、アイラは他人を信頼した記憶がない。

 何度も騙され、裏切られてきた経験からだろうか。親しい存在を作らず、どうしようもないと思えば諦める。

 そんなことを続けてきたアイラは、いつしか、他人を信頼しなくなっていた。

 クラウスやタキは信用していたし、リウやミウには温かい感情を抱いてはいたものの、彼らを信頼しているかと聞かれれば、アイラは首を傾げただろう。

「アイラ、入るぞ」

 クラウスの言葉に返事をする。やがて入って来たクラウスを、アイラは肩越しに振り返って見た。

「調子はどーよ」

「ん、まあ悪くはない」

「そっか。ならいいや。三日後くらいに発とうと思うんだけどさ、どう思う?」

「三日後か……。良いんじゃないか、別に」

 あっさり答える。クラウスは慣れた様子で、そうか、と頷いた。

「ま、ほんとならアイラが本調子になってから発ちたいけどさ、向こうさん、まだいそうだし。何か仕掛けられても面倒だしさ」

「……それに、もう追手はここに入っているだろうな」

「そーいうこと。そういやさっき、アンジェの姉さんとすれ違ったんだけどさ、何かあったのか? えっらい険しい顔だったぞ」

 アイラが、簡単に先刻のやり取りを説明すると、クラウスは納得したように頷いた。

「あー、まあなー。分からんでもない。つーか、それは心配されてんだろ」

「……心配、か」

「オレの意見だけどな。まあ、何だ。フォローくらいはしたらいいんじゃね?」

 その言葉を残して、クラウスは部屋から出て行き、後にはアイラだけが残された。