入相の丘
騒ぎに紛れてその場を脱したアイラとアンジェは、屋台で胡桃餅を買って軽食を取っていた。
辺りはあの騒ぎが嘘のように、平静に返っている。
幸い、先刻の騒ぎにアイラが関わっていたことは広まっていないらしい。これで広まっていたら、明日からアイラが動き辛くなるかもしれない。
噂が広まるくらいならそこまで困らないが、ルドルフ・フォスベルイの耳に入るのは困る。わざわざ男装までして探りを入れているアイラの行動が無駄になるかもしれない。それは避けたい。
残っていた胡桃餅の最後の一欠片を口に放り込んで飲み込むと、アイラはアンジェの方を振り返った。
「……さて、どこか行く?」
「そんなこと聞かれても。ここのことは、あなたの方が詳しいんじゃないの?」
「んー、いいところは知ってるけど、行くのはまだ早い。まだ昼だからね」
「それなら……石碑、見ておかない?」
「ん、分かった」
アンジェが、少しばかり迷って口にした言葉に、アイラは実にあっさり頷いた。聞いたアンジェが思わず聞き返すほど。
「え、いいの!?」
「うん。見たからと言って、罰が当たるわけでもないだろう?」
「そりゃ、そうだけど」
若干の呆れを覚えつつ、アンジェはアイラと共に教会への道筋を辿り始めた。
教会に着き、その陰に建てられた石碑を見て、アイラは小さく鼻を鳴らした。
憤慨したのか、それとも呆れたのか。灰色の目からは、その両方の感情がうかがえた。
「ふん、こんなもの、何の意味もない」
やがてアイラはただ一言、軽蔑するように呟いた。
「え?」
「ただの石だってだけ。何も伝えない。何も記念しない。碑は、伝えるため、記念するためにあるものだろう? これでは何も伝わらないし、何の記念かも分からない。事情を知る人間がいなくなれば、かえりみられなくなるか……何かの礎石にでも使われるのが関の山だろうさ」
アイラの辛辣な言葉に、アンジェは眉を潜めた。アイラはそれを気にするでもなく、石碑の周りを一巡りしている。口元を覆うスカーフで外からは見えなかったが、少し唇を尖らせて。
「そういえば、これのことは何か分かった?」
「……ええ。聞く?」
何となく、躊躇うようなアンジェの様子に、アイラは器用に片眉をはね上げた。
「後で聞くよ。さて、石碑も見たし、しばらく町中を見て回ろうか?」
この提案にアンジェも頷き、二人はその場を後にした。
そして、夕近くまで町のあちこちを見て回った後、二人の姿はリントウの東側にある高台に向かう道にあった。
高台を目指すアイラは、少しばかり早足で、その灰色の目は、いつもよりも明るく見えた。
「ねえ、この先に何が――」
一足早く高台の頂上に至ったアイラを追って、アンジェも頂上に辿り着き、そこで言葉を途切れさせた。
西の空が燃えていた。遠くの景色は黒に沈んでいた。
西の空一杯に、朱と金とが広がっていた。太陽の周りは金色に照らされ、そこから遠ざかるにつれて朱が混じっていた。
眼前に広がったこの景色は、アンジェにとって後々までの思い出になった。
この先、年月を重ね、若い娘から人の妻となり、老年に入っても、このときの光景は、アンジェの記憶から消えることはなく、いつも鮮やかに蘇るのだった。
言葉もなく夕焼けに目を奪われているアンジェの横で、アイラもスカーフの下で微かに微笑んで夕焼けを見ていた。
「すごい……」
「『赤き息子、大地の母の元へと至る。大地の母、赤き息子を迎え、白き娘を天の父の元へ出だし遣る』」
「それは?」
「ん? ああ、昔話。ほとんど忘れたけどね。そろそろ戻ろうか。暗くなったら、危ないから」
土を踏み固めたような道を下り、ジエンの邸へと戻る。
ちょうど、邸では夕餉の準備が整えられていた。
米飯、剥き身の貝の入った澄まし汁、鶏の照り焼き、香の物、冷やしたカジンの実。
食事を終えて、湯を使った後、アイラは、アンジェから、彼女と司教との間に交わされた会話を聞き取った。
全てを聞いたアイラの顔には、かすかに皮肉げな色が浮かんでいた。
しかしアイラは何にも言わず、身体を動かすために部屋を出て行った。
向かったのは中庭。少し前に模擬試合をしたあの中庭の片隅で、アイラは身体を動かしていた。
身体に染み込んだ動きを何度も繰り返しながら、アイラは司教の言葉を考え、そしてイヴァク司教に対して、驚きと、一滴の苦々しさを覚えていた。
驚きは、彼が“狂信者”の存在を知り、それを認めていることに対してだった。苦々しさの方はあの石碑に対してだった。
(あんなものを建てるくらいなら、いっそ語り継げばいいものを)
失われた命は、何をしたところで戻らない。だからこその碑なのだろうが。
(無駄なことだ。あれでは、イオリ族も浮かばれまいに)
平和に暮らしていたところへ、何の関わりもない者達が来て、何の根拠もなく、悪であると断じられ、抗弁もできずに殺される。
それは、どれほど無念なことか。
体勢を低くして踏み込み、鋭く拳を突き出す。その間、もう一方の手は腹を庇っている。
身体を戻し、もう一度、一から動きを繰り返そうとしたとき、聞こえてきた手を打ち合す音に、アイラはその方向を振り返った。
そこには、どうやら風呂上がりらしいユンムが、感嘆の表情を浮かべて立っていた。
「見る度に腕が上がってるようだな。今の時期はそういうものだ。日に日に身体は技を覚えていく。腕が上がっていく。それが楽しくて、余計にのめり込む。そんな時期だ。いい時期だ」
その言葉に、アイラは苦笑するような、自嘲するような、どちらとも取れるような表情で、肩をすくめて見せた。
「別に楽しいと思う訳でもない。身体が鈍らぬようにというだけだ」
「それを聞いて安心したよ。人が変わったようだと思っていたが、そういったところは変わってないんだな、お前さんは」
「……変わりたいとも、変わろうとも、思ったこともないからな。このところ、変わった変わったと、よく言われるが、正直自覚はないよ」
「はは、知らぬは本人ばかりなり、ってやつか。っと、それより、元締から連絡だ。『駒が揃った』と。一日置いて、明後日に、仕掛けるそうだ」
「分かった。……本当に、私でいいんだな」
「ああ。頼む」
何も言わず、アイラは一つ頷いた。その顔に、決意を浮かべて。
→ 憎むもの