冬鳥の渡る日
診療所のベッドに横になったまま、アイラは窓から、雪がちらつく外の様子を眺めていた。
ハインズ医師から、当分は安静にと言われ、この一週間、アイラは診療所で、うつらうつらと日々を送っていた。『治癒』のおかげで、命に別状はなかったが、出血と疲労で、その身体は弱っていた。
双子とアンジェは毎日、アイラの元に顔を見せていた。もっとも、負担になるから、と、ハインズ医師が許したのはこの三人だけだった。
そして今日も、雪の中、アンジェが姿をみせた。
フードのついたマントを脱いで、病室に入ってきた彼女の気配に、アイラは頭を巡らせた。
「具合はどう?」
「ん、悪くはないよ」
「そう? ……耳は?」
「もう痛まない。少し音は集まりにくいけど、障りはないよ」
精一杯の笑みらしいものを浮かべたアイラの顔が、ふと引き締まる。
「アンジェ、なぜ、ここに? 神殿にいたんじゃなかったのか」
「いたんだけどね」
そう答えて、アンジェはアイラの様子を見ながら、ここに来た経緯を話し始めた。
話す間、アイラは一言も口を挟まなかった。灰色の目をじっとアンジェに向け、彼女の話を聞いていた。
やがてアンジェが話し終わると、アイラは目を閉じ、一つ息を吐いた。
疲れたのかと不安げなアンジェに、そうではないと首を振る。
「納得しただけ」
「よくあるの?」
「虫が知らせることはね。さっきの話のようなのは……私はないけど」
「そう。ねえ、アイラ。どうして、あんな無茶を?」
今度はアンジェの顔が険しくなっていた。それを見て取って、アイラは苦笑を浮かべる。
「無茶、か。まあ、無茶だったな。でも、これ以上、ランズ・ハンの二の舞を増やすのはごめんだったから。“門”の力で、今度こそ、皆を守れるのなら、と思ったんだ」
「それで、自分が死んでも?」
「……どうだろうな。考えていなかった、そこまでは」
やれやれと、アンジェが天井を仰ぐ。疲れさせてはいけないから、と、アンジェはその後すぐに帰っていった。また明日来るから、と言い置いて。
夕方頃には、ミウが姿を見せた。この一週間、アンジェと共に牧師館に滞在していた双子は、今日になって自分の家に帰り、たまっていた家事を終わらせていた。家畜の世話こそ村から通ってやっていたのだが、家の中の仕事が滞っていたらしい。
掃除が大変だったよ、とミウは笑い、その屈託のない笑顔に、自然とアイラの顔もほころぶ。
良かった、と思う。掃除も、家畜の世話も、それは日常の物事で、それができる日常を守れたことが、嬉しかった。
「家に戻ってきたら、姉さんが何でも好きなもの作るって張り切ってるの。ね、何が食べたい?」
「そうだな…………ああ、クリーム煮が食べたい」
「分かった、伝えておくね」
ミウが急ぎ足で去っていく。窓の前を通るとき、手を振った彼女に向けて、アイラもようよう片手を上げてみせた。
アイラが退院を許されたのは、それから更に二週間が過ぎた日だった。あの襲撃からは、およそひと月が過ぎようとしていた。
ひと月の間、アイラの身辺には何もなかった。エヴァンズ牧師がアンジェに言っていた通り、そしてアイラが経験した通り、ことは内密に処理されたようだった。表向きには、適当な理由をでっち上げて。
ベルグ族の六人は、エヴァンズ牧師の、オルラントのラルフ牧師に向けて書かれた手紙を持ち、村を発っていた。それを見せれば、少なくともオルラントで滞在場所に困ることはないということだった。
村を発つ前の日、族長が診療所のアイラのもとを訪れた。
「あんたは、とんでもないことをやってのけたな」
「それが私の務めだから。ところで、私がハン族の者だと良く分かったな?」
「アルハリクを信じているのは、ハン族しかおらぬだろう」
「そうだな。……この先、神の祝福があるように」
族長は頷いて目礼し、診療所から出ていった。
そして退院の日、アイラはハインズ医師に礼を言い、後で診療代を持ってくると言ったが、この初老の医師はきっぱりとそれを断った。
ノックの音。双子とアンジェ、それにエヴァンズ牧師が戸口に立っていた。
外に出ると、冷たい空気が肌に触れた。久しぶりの外の空気だった。
「大丈夫ですか?」
「うん」
道を歩いていくと、行きかう村人達がアイラを認め、次々と声をかけてくる。アイラもそれに答えながら、知らず、その顔に柔らかな笑みを浮かべていた。
エヴァンズ牧師に村の入り口まで送ってもらい、そこから先は四人で歩く。アンジェは初め遠慮していたが、双子が是非にと勧めるので、一緒に行くことになった。
村から離れた小さな家は、何も変わらずにアイラを迎え入れた。台所の焜炉ではクリーム煮がよそわれるのを待っていた。
アイラとアンジェを椅子に座らせ、さっそく双子が食卓を整える。あっという間に四皿のクリーム煮とパン、ナライ鳥の肉を蒸し焼きにし、甘辛いソースをからめたナライカセがテーブルの上に並んだ。
いただきます、と手を合わせ、スプーンで白いクリームのスープをすくって口に運ぶ。
「美味しい」
「良かった。好きなだけ食べてね」
リウの言葉に頷く。温かな食事と、交わされる会話が、アイラをゆっくりと満たしていく。
ずっと抱えていた虚ろが、ようやく埋まった気がした。
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