冬鳥の渡る日
日に照らされて、積もっていた雪は日に日に薄くなっていく。良く日があたる前庭には、雪の合間から新芽が顔を出し、春がすぐそこまで来ていることを伝えていた。
屋根に溶け残っていた雪が滑り落ち、どっと大きな音を立てる。それに驚かされた牛が声を立てるのを、ミウはよしよしとなだめた。
乳搾りを終えて家に戻り、三人で朝の食卓を囲む。
近々ここから発つとアイラが言ったのは、朝食を食べ始めたばかりのときだった。
「いつ?」
「ん……来週には」
ずっといてもいいのに、という言葉を飲み込んで、リウはそう、と頷いた。それを見抜いたように、アイラがすまなそうな顔になる。
「いようかとも、思ったけど。行きたい所もあるし」
「ううん、いいのよそんな顔しなくて」
リウは、話は打ち切りと、手を振る。
双子が針仕事をしている傍らで、アイラは木切れにナイフを滑らせていた。
しばらくして、軒下に雪が落ちた音に、アイラは窓の外に視線を走らせ、木屑を始末して立ち上がった。
「ちょっと、村まで行ってくるよ」
行ってらっしゃい、の声に送られて、外に出る。春が近いとはいえ空気はまだ冷やりとしていて、アイラは首元のスカーフを巻き直した。
村に着いたとき、ちょうどノルを連れたルイン婦人とすれ違った。婦人はノルを傍に引き寄せ、アイラに恐ろしいものでも見るような視線を向ける。
アイラは横目でそれを見て、そのまま足を進めた。何をしても、埋まらない溝もある。
すっかり見慣れた道を辿り、牧師館へ向かう。招き入れられた途端に飛びついてきたハンナに苦笑しつつ、その頭をよしよしと撫でてやっていると、二階からアンジェが姿を見せた。
「どうしたの?」
「あんたに、一応話しておこうと思って」
「私に?」
小首をかしげたアンジェは、二階の客室にアイラを導いた。
「どうかしたの?」
「うん、来週、この村を発とうと思ってるんだ」
「この村を出て……どうするの?」
んー、と唸りつつ、アイラは灰色の髪をかしかしとかき回す。きれいに櫛が通っていた髪は、あっという間にくしゃくしゃに乱れた。
「行きたいところがあるんだ。あちこち、ね」
「……それだけ?」
アンジェの濃茶の目が、探るようにアイラを見ている。
明らかに不利な状況で、村を守り抜いたアイラがこれからどうするのか、アンジェは密かに気にしていた。その動機がどこからくるのかも、彼女は知っている。
守れなかった後悔。それがアイラの胸に、ずっと巣食っているものだと。
だが今度は、『守ることができた』。もしもそれで後悔が晴れていたのなら。未練がなくなっていたのなら。
双子と親しくなっていたアンジェは、二人から、アイラがこのところ、何か考えこんでいることが増えている、とも聞いていた。
もしもアイラが、神の元へ向かおうとしているのなら?
「ねえ、アイラ。あなた、何かおかしなことを考えているんじゃないでしょうね?」
「……何を?」
「その……自分で……自分を……とか」
小さく首を左に向け、アンジェの言葉を拾おうとしていたアイラは、この言葉にしばし動きを止め、灰色の目をぱちくりとさせた。
やがて、言葉の意味を理解したアイラの口元に、苦笑が浮かぶ。
「そんなことはしないよ。ねえ、アンジェ。何を心配しているのかは、大体想像がついているけれど……トレスウェイトを守れたからと言って、ランズ・ハンを守れたわけじゃないんだよ。村を発つと言ったのは、そりゃランズ・ハンに行こうと思っているからだけど、そこだけじゃなくて、ウーロに行って、タキに顔も見せたいし、メルヴィルで、ネズがどうしているか、とか、リイシア達がどうしているのかも気になるし、それから……ヨークに行って、シュリやマティの顔も見たいし」
指を折りながら、ゆっくりと、一つ一つ数え上げていく。
「……なら、私も一緒に行くわ」
アンジェの言葉に、再びアイラの目が丸くなる。
「いいのか? それに、身体は?」
「別に元々、私は在家の聖職者だもの。旅して回ったって咎められるようなことないわ。それにヤタからここまで来てるんですもの、もう大丈夫だって分かるでしょ?」
アイラの笑みから、苦々しいものが消える。
「ありがとう、アンジェ」
差し出された手を、アンジェはしっかりと握り返した。
吹きすぎていく風に、春の温もりが混じっている。
旅装束を整えたアイラとアンジェは、村の入り口に立っていた。見送りに来た双子と、エヴァンズ牧師は名残惜しげな顔をしている。
「……また、冬には戻って来るよ」
アイラの言葉に、リウとミウは顔を見合わせ、どちらからともなく、顔をほころばせた。
「いってらっしゃい、冬鳥さん」
示し合わせた訳でもないのに、ぴったりと揃った二人の言葉に、アイラはスカーフの下で顔をほころばせた。
「いってきます」
「お世話になりました」
まだ雪の残る街道を、二つの影が少しずつ小さくなっていく。
「まず、どこに行くの?」
「んー、ウーロ、かな。まずは、タキに会いに行くよ」
スカーフの下から、アイラはアンジェに言葉を返した。わずかに、笑みを含んで。