冷えた心

 変化というものは、初めは誰の目にも見えないものである。見えないが為に、変わったことに気が付くのは難しい。

 そして変化の裏には、大きな物事が隠れていることがある。

 また、変化が目に見えるようになったら、つまりは誰しもがその変化に気付くようになったなら、裏でひっそりと進んでいた物事が、突如表に現れてくる。

 ヒシヤの家において、最初に誰にでも分かる形で変化が現れたのは、儀式の二日前のことだった。

 昨日までは、日々の食事の時間にきちんと現れていたアイラが、今朝は姿を見せなかったのである。

「まだ寝ていらっしゃるのかしら」

「見てきましょうか」

「ああ、いや。きっと具合が悪いんだろう。昨日、そんなことを言っていたよ。イナ、後で何か持って行ってあげなさい」

 カズマの言葉で、その場はとりあえず収まった。

 アンジェは朝食を食べながら、時折ちらりと横の空席を見た。アイラの具合が悪いことを、アンジェは今初めて耳にした。

 アンジェとアイラの部屋は隣合っているが、彼女は今朝まで、隣の部屋から何の音も聞かなかったのである。それに昨日は、アイラは特にどこかが悪い様子はなかった。

(変ね、あの子らしくない)

 宿に泊まっているときならともかく、人の家に泊まっていて、その上でどこか悪くて食事を抜くと言うのなら、自分に言付けるくらいはするだろう。

 内心首を傾げたアンジェだったが、同時に、いつもアイラはそうじゃないかと呟いていた。

 アイラはいつも、自分一人で決めて、自分一人で抱え込む。傍の者がどう思おうと、そんなことは彼女にとっては些事なのだろう。だって、彼女は――。

「後で様子を見ておきますね」

 一瞬よぎりかけた暗い感情にどきりとしながらも、その動揺は押し隠して、アンジェはそう言った。

 朝食を終えた後、アンジェは自分の言葉通り、アイラの部屋の前に立った。

 アンジェは襖に手をかけてはいたが、開こうとはしていなかった。

 部屋の中からは、何も物音がしなかった。アイラは眠っているのかもしれない。

「アイラ?」

 小声で呼んでみる。これは本当に呼ぶためというよりむしろ、自分が声をかけたという確認のために呼んだのである。

 襖を開けると、布団の上で仰向けになっているアイラが見えた。上から顔を覗き込む。

「どうしたの、朝も食べに来ないで」

 アンジェの声は冷たかった。初めてあったときと同じ冷ややかさが、アンジェの声と、濃茶の目に宿っていた。

 アイラもそれに気付いていたはずだった。絶望をたたえた灰色の目は、しっかりとアンジェの目を捉えていたのだから。

 アンジェは眉をひそめてアイラを見返していた。何かあって、アイラが絶望に捕らわれているのは事実だった。だが、何に対して絶望しているのか? それはアンジェにも分からなかった。アイラの様子は――少なくとも、その外見は――これまでと変わらなかったのだから。

 いつもなら、どうしたのかと尋ねただろうが、この日のアンジェは冷やかな目付きのまま、部屋を出て後ろ手に襖を閉めた。

(アイラのことなんて、心配することないわ)

 自身が、かつての冷たい心持ちに返っていることを、アンジェはこのとき初めてはっきりと自覚した。

 メオンの無残な姿を見、彼の言葉を聞いた今では、その冷たさも当然のように思われた。

 それに、アイラは言っていた。メオンを殺したことを、後悔していない、と。

 メオンだけでなく、アイラはこれまでに多くのレヴィ・トーマの信徒の命を奪っている。死にたくないから、という理由で。

 彼女に殺された者達も、死にたくはなかったはずだ。

――そう、アイラは円環を乱す者。円環の神の徒ならば、何をすべきか分かるだろう?

 何者かがアンジェに囁きかける。男の声だった。メオンの声に少し似ていた。

――円環の神の徒ならば、円環を作ることを考えなければならない。円環を乱す者を、のさばらせておいてはならない。円環を乱す者は、排除しなければならない。

 最もなことだとアンジェは思った。声の語る内容が、彼女が厭う狂信者の考えと同じであることに気付かないまま。

――二日後の式の日に、仇を贄とするがいい。罪ある者は、浄められねばならないのだから。

 アンジェは我知らず微笑んだ。その笑みは、決して快いものではなかった。もしアイラが今のアンジェを見たら、巡礼地でのメオンの顔を思い出したことだろう。

 アンジェは静かに部屋に戻った。荷物を静かに探り、一振りの短剣を取り出した。

 アンジェの肘から指先までと、ちょうど同じ刃渡りの短剣は、これまで一度も血で汚れたことはなかった。アンジェ自身、これを自在に扱えるとは言い難かった。

 それにアイラは手練だ。自分がかなうだろうか。既に一度、失敗しているのに。

――何、お前には術があるじゃないか。それに彼女は贄だ。抵抗などしないとも。

 アンジェの笑みが深まる。

 ゆっくりと短剣を鞘に戻し、腰に帯びる。いつでも扱えるように。

「失礼します」

 イナが湯呑を盆に乗せて入ってきた。入れてもらった茶を飲みながら、アンジェはイナが自分の顔を伺っているのを感じていた。

「あの、何か?」

「いえ、お口に合うかと思ったものですから」

 イナは微笑んだが、その笑みは、どこか無理をしているように見えた。

「何か不都合なことでもあったんですか?」

「いえ、何も。大丈夫ですよ」

 そう言いつつも、イナは姿勢を正して座り、正面からアンジェの顔を見た。

「今あなたが何を考えているのか、私には分かりません。けれど少し考えてみてください。あなたが為そうとしていることが、本当に正しいことかどうか」

「……私は、仇を討ちたいだけです。多くの人が、多くの同朋が、彼女によって命を落としたのですから」

「そうであっても、あなたのその気持ちは、この家に来てから芽生えたものではないのですか」

「いいえ。元から私は、仇を討とうと思っていたのです。誰かに言われたわけではありません。命じられた訳でもありません。私は私の意思で、仇を討つために、彼女のそばにいるのです」

 きっぱりと言い切ったアンジェに対し、イナは落胆したように、そうですか、と一言呟いた。その様子に引っかかったものの、アンジェは何も言わなかった。