別れの日

 強い風で雨戸が揺れる。中からは見えないが、きっとひどく吹雪いているのだろう。温かな家の中では、リウとミウ、それにアイラが思い思いに手仕事をしている。

 リウは複雑な模様の入った肩掛けを編み、ミウはハンカチに刺繍をし、アイラは持っているナイフを研いでいる。

 ミウが縫っていたハンカチを置き、ぐ、と一つ伸びをする。それを見ていたリウがくすりと笑い、編み棒を置いて台所に立った。鼻歌混じりに、台所で何か作っている。

「ちょっと早いけど、お茶にしましょうか」

 やがてリウが湯気の立つココアと、干し果物が混ぜ込まれたパウンドケーキをトレイに乗せて持って来た。

「あ、やったー」

 ミウがいそいそと、ハンカチと裁縫道具の入ったバスケットを片付ける。アイラも砥石とナイフを片付け、手を洗ってからケーキを一切れ取って口に入れた。

 しっとりとしたスポンジはほのかに甘く、そこに果物の酸味が混じる。かすかに、料理酒のものらしい後味が口に残った。

「美味しい」

「そう? 良かった」

 アイラの言葉にリウが微笑む。腕を回して肩をほぐしていたミウも、ケーキを一切れ口に運ぶ。

「うん、美味しいよ。それにしても、久しぶりに刺繍なんてやったものだから、肩凝っちゃった」

「あんたは根を詰めすぎなのよ。もっと休み休みやりなさい」

 リウが苦笑しつつ妹に言う。ミウはおどけたようにちょっと舌を出した。

 一際強い風が吹いたのか、雨戸が激しく揺れる。しかし室内はあくまでも穏やかだ。

「大きな吹雪は、これで最後でしょうね」

 リウがふと、独り言のように呟いた。ミウがそうだね、と同意する。そんな二人を眺めつつ、アイラは黙ってココアをすすっていた。

 吹雪がこれで最後、ということは、春が近付いてきている、ということだ。そして春になれば、アイラは西へと発つ。

(春には、別れるんだな)

 そう思った瞬間。胸の中を、冷たい風が吹き抜けていくような感覚に襲われた。

 今までのアイラなら、二人と別れることに対して、何とも思わなかっただろう。あっさりと別れられたはずだ。しかし今のアイラは、彼女自身も気付かないうちに、この姉妹に対して情を移していた。

 今になってそのことに気付き、小さく溜息を吐く。

「どうかしたの、アイラ?」

 憮然とした顔になったアイラを不審に思ったのだろう、リウが声をかけてきた。

「ん、別に……」

 答えてアイラはもう一切れ、ケーキを口に運んだ。自分の感情をはっきり表すことは、彼女の習慣ではない。

「そっか。春になったら、また旅に出るんだよね、アイラは。寂しくなるなあ」

 アイラを見ていたミウが、思い出したように漏らす。この言葉を聞いて、ようやくアイラは、今抱いている感情が『寂しさ』なのだと思い至った。そして、別れることを寂しいと感じた自分に驚く。

 こういった感覚は、もう失ってしまっていると思っていたのだが、そう思い込んでいただけだったのだろうか。

「……また、手紙を書く」

 内心の動揺を押し隠して、アイラはぽつりと呟いた。

「うん、よろしくね」

 ミウが笑って言葉を返す。何とも言いようのない気分で、アイラは半分ほど残ったココアを傾けた。

 その夜、アイラは窓際に座り、冷たい窓ガラスに頭をもたせかけていた。雨戸越しに、風の音が聞こえてくる。火を焚いていない部屋は寒いが、今のアイラは寒さなど気にしていなかった。

 目を閉じて、ぼんやりと風の音を聞く。アイラの頭の中では、取り留めのない考えの断片が、ぐるぐると回っている。

(情を移さないようにしていたつもり、だったのだけど)

 それでも、無意識に情を移してしまったのは、日々を過ごす中で、アイラがリウとミウに自身の『家族』を重ねてしまっていたのだろう。本当の家族には、二度と会うことはできないから。

 しかし、寂しさを感じるほど二人に親しんでいたとは、アイラ自身思いもよらなかった。彼女としては普段のように、距離を置いているつもりだったのだ。

 ふと、あの占い師の言葉を思い出す。

『そのとき、お前さんは決断を迫られる』

 決断、とはこのことだろうか。

(……違うか。これは元々、決まっていたことだし)

 軽く頭を振る。抽象的な言葉を気にしていたらきりがない。

 ふっと息を吐き、アルハリクに祈りを捧げてから、アイラはベッドに潜り込んで目を閉じた。それでもしばらくは眠れずに、ベッドの中で輾転反側を繰り返す。

 やっとのことでアイラが眠ったのは、ベッドに入ってから一時間ほど過ぎてからだった。

 

 

 

 吹雪が過ぎ、長かった北部の冬も終わり、とうとう、アイラが北部を去る日がやってきた。

 朝からリウは台所で腕を振るい、ミウはアイラの旅支度を手伝っている。

「まだ朝晩は寒いから、上着は持ってた方がいいよ」

「ん、分かった」

 着替えなど、かさばるものを背嚢に入れ、細かいものを整理し、金を三等分して別々の財布にしまう。愛用の袋帯とスカーフ、頭に巻くバンダナは畳んで荷物の傍に置いておく。

「二人ともー、ご飯できたよー」

 リウの声に部屋を出る。テーブルの上には、リウの心尽くしが並んでいた。

 焼きたての丸パン、刻んだ野菜がたっぷり入ったスープ、ケーレン(小麦粉を練って薄く伸ばし、挽肉と野菜を包んで焼いたもの)。

 朝食の時間は、いつもよりゆっくりと過ぎた。食べながら、他愛のない会話を交わす三人。

 朝食を済ませ、少し休んでから、身支度を整えたアイラはゆっくりと立ち上がった。

「……それじゃ、そろそろ」

「気を付けてね」とリウ。

「また、いらっしゃいよ。来年の冬にでも」とミウ。

「んー……考えておく」

 必ず来る、とは言わなかった。先のことは分からないから。

 急に、リウが何か思い出したように踵を返し、二階へと駆け上がって行った。すぐに彼女は降りてくる。手に、布の袋を持って。

「これは?」

「保存食と、大事なもの。旅に出るなら、こういうのもいるでしょ?」

 大事なもの、という言葉に引っかかるものを覚えたアイラだが、保存食ならありがたい。袋を受け取って背嚢にしまう。

 外に出たアイラは、やおら二人の方に向き直った。口を覆うように巻いていたスカーフを下ろす。

「その……ありがとう」

 ひどくぎこちない、錆びついたような微笑みが、アイラの顔に浮かぶ。ミウはにっこりと笑みを返し、リウも一瞬目を瞬いてから、アイラに向かって微笑みを返した。

「それじゃ、元気で」

「アイラもね」

 ミウの言葉に頷くアイラ。

 最後にもう一度、二人に視線を向けて、アイラはゆっくりと足を踏み出した。

 まだあちこちに雪が残る道を、小さな後ろ姿が歩いて行く。やがてその姿が完全に消えるまで、二人は戸口で見送っていた。

 

→ 兄の仇