力ノ試
内側から扉を閉めた後、アイラはしばらく壁にもたれかかるようにして佇んでいた。
神殿の中は暗いが、完全な暗闇ではない。どこかに明かりを取り込む工夫でもされているのだろう。
少しずつ目が暗がりに慣れてくる。この部屋はさほど広くはなく、がらんとしている。
奥の方には暗い廊が伸びている。
素足に伝わる冷たさに、アイラは思わず身体を振るわせた。空気も心なしか外より冷たく、それが更に寒さを感じさせる。
それでもひたひたと奥に向かって歩みを進める。進む以外に道はないのだ。
次の部屋も滑らかな石造りの部屋だった。壁には何やらレリーフが施されている。
薄暗くてはっきりとは見えないが、聖典の一部が彫られているらしい。絵の傍に彫り込まれた数行の文章からもそれは知れた。
「『アルハリク、従者を具して邪なる者に真向かう。邪なる者、二人を殺さんとすれども、アルハリク、神の太刀にて彼の者を両断す。神を貶める邪なる者は倒れ、二度と現るることなし』」
この他にも、アルハリクがこの神殿に籠もり、“門”を置くことになった経緯や、“門”に関わるいくつかの文章、神の武器についてなど、アイラにとっては良く知っている文章が彫られている。
使われている文字は大陸の共通語ではなく、この辺りの少数民が使う民族語だ。
ハン族では、聖典や祝詞など、宗教に関わることには民族語が使われていた。日常生活では共通語を使っていたが、老人などは民族語を使うこともあり、アイラも民族語での会話や読み書きは一通りできた。
部屋の奥には短い廊下があり、淡い、青い光で照らされている部屋が見えた。思わずごくりと喉が鳴る。
アイラはすぐには奥の部屋に行こうとはせず、壁中に彫り込まれたレリーフをじっくりと眺めていた。指で文章を辿り、ぽつぽつと声に出して読み上げる。
字を書くのは苦手なアイラだが、読む方は別に苦手ではない。
文章を読むうちに、幼い日の思い出が浮かんでくる。褒められたくて、聖典を毎日毎日読んだ。そのうち、そらで読んだ方が、ただ読むよりも褒められると気付いて、一層聖典を読むのに身を入れるようになった。
部屋をぐるりと一周して、ようやく廊の前に立つ。かすかに布の擦れる音を響かせながらスカーフを解き、床に落とす。首元の刺青が少し覗いた。
ふ、と短く息を吐き、きっと目を上げて奥の方を見やる。冷え切った足を一歩、踏み出した。
廊を抜けると、青い光に照らされた部屋。中心に、円形の石舞台が浮き上がっている。
アイラは石舞台に歩み寄り、その前に額ずいた。このときにだけ唱える、古い祈りの言葉を唱えながら待つ。
やがて、アイラの耳に足音と、衣擦れの音が届いた。
――顔を上げよ、門の娘。
ゆっくりと伏せていた顔を上げる。アルハリクとその従者が、静かな瞳でアイラを見ていた。
アルハリクはゆったりとした黒の長衣をまとい、暗い灰色の髪をした壮年の男の姿を取っていた。彼の灰色の双眸には、どこか懐かしむような色がある。
その後ろに立つ従者は、黒にも見える濃い藍の衣を着、墨のような黒髪を後頭部でまとめている。
腰に二振りの刀を落とし差しにし、主人の後ろで静かに佇む彼は、まるで影のように見える。
アイラはこの従者について、東方の出身であるということ以外、ほとんど何も知らなかった。習い覚えた聖典にも、この男はただ『従者』とあるきりで、その名も書かれてはいなかった。
彼が名を持たない理由については、ハン族の神官達の間でも解釈が分かれていた。アルハリクについて神になるために名を捨てたからだと主張する者。元から名前を持たない者だったからだと言う者。アイラはまだ幼かったせいか、それに直接関わることはなかったが、前者の意見が優勢だったような覚えはある。
アルハリクがゆっくりと口を開く。厳かな声がアイラの耳朶に響いた。
――戻ったか。
「はい」
――ならば、お前は“門”となることを受け入れるのだな。
「はい」
言い切るアイラに迷いはない。
――問おう、門の娘。神の武器は何の為にあるのか。私が与える力は、何の為にあるのか。
アイラは真っ直ぐに背筋を伸ばし、口を開いた。
「守るために。他人を、そして私自身を、守るために、あなたの力はある。これが、私の答えです」
アイラの灰色の瞳は、臆することなく、神と呼ばれる男に向けられている。
――主。
初めて従者が口を開く。その声はぞっとするほど冷たい。
――この者に、『力ノ試』を。
従者の、きつい眼光を宿した瞳がアイラを射抜く。
――ほう?
――この者はかつて、“門”の役目も果たさず、この場から去った者です。故に、“アルハリクの門”にふさわしいとは思えませぬ。
冷たくアイラを睨みながら、従者が言葉を続ける。アイラは言葉もなく、少しうなだれてその言葉を聞いていた。
――良かろう。門の娘、お前の力、この場にて示して見せよ。
従者が石舞台から降りる。アイラもまた立ち上がり、彼と対峙する。
アイラは足を肩幅に開き、両手を胸の辺りまで引き上げて構える。従者の方も腰の刀を鞘から抜き、正眼に構えている。
何とかして懐に飛び込もうと様子を伺うアイラだったが、従者の構えには一分の隙もない。
中々動こうにも動けないアイラとは対照的に、従者の方はぴたりと刀の切っ先をアイラの顔に据え、彼女の動きにあわせて体の向きを変えてくる。
かすかに布の擦れる音。辛うじてこれを聞き取ったアイラだったが、彼女が動くより早く、アイラをめがけて刀が突き込まれる。
ぱっと飛び退り、それをかわす。が、避けきれず、アイラの頬に赤い線が走る。息つく間もなく、二の太刀、三の太刀と続けざまに切り込まれる。
この従者は恐ろしいほどの手練だった。避けようとしても避けきれない。必ずどこか、切り裂かれる。
前から、後ろから、さては右や左から振るわれる刃を、アイラはひたすら避け続ける。
(……埒が明かない)
アイラの胸に焦りがつのる。それを見透かしたかのように、従者の太刀は鋭さを増した。
首に伸びてくる刃。喉を庇った瞬間、脇腹に熱を感じた。次いで痛みが襲ってくる。
その痛みと、流れ出す血の感覚が、アイラに落ち着きを取り戻させた。
このままでは『力ノ試』に受かることはできない。しかし“神の武器”を使っている余裕はない。
何より振るわれる太刀を避けるのに精一杯なアイラは、自分から攻撃する余裕がない。加えて従者には隙がない。
冷静に現状を確認するアイラ。その間にも従者は攻撃の手を休めない。
アイラはそれをかわしながら、じっと従者の様子を見ていた。
いかに神の従者だとは言え、動くときにほんのわずかの隙もないということはあり得ないはずだ。隙がないのではなく、隙がごく小さいのだろう。
そしてとうとうアイラは気付いた。従者は攻撃した直後、次の攻撃に移るときに、ごくわずかながら隙があることに。
(……よし。これで駄目なら、もうそれまでだ)
一つ方針を立てたアイラは、攻撃をかわすために動き回るのを止め、その場に腰を据えた。従者が訝しげにアイラを見つつも、彼女の心臓に切っ先を向ける。
向けられた刃先は細かく揺れている。しかし彼女は太刀ではなく、従者本人に注意を集中させていた。
部屋の中は、針の落ちる音すら聞こえるだろうと思われるほど静まり返っている。
その静寂を引き裂いて、裂帛の気合声が響いた。
太刀がアイラの左肩を裂く。それと同時に、身体を深く沈めていたアイラは、床を蹴って飛び上がり、従者の胸に拳の一撃を叩き込んだ。
従者の顔に初めて驚きが浮かぶ。
金属が床に落ちる音。次の瞬間、アイラの腹に激痛が走った。
→ “門”の儀式