動き出す意思
その日の夜、いつもより遅くベッドに入ったアンジェは、中々寝付けずにいた。
特に理由があるわけではないが、時にはこんな日もあるものだ。
隣のベッドでは、アイラが寝息を立てている。それを聞きながら、アンジェは何度目かの寝返りを打ち、目を固くつむった。
普段なら、さほど気にならないような物音が、やけに耳につく。
ピシ、パシ、と木が鳴る音。遠くで何かが唸るような音。時計の秒針が時を刻む音。
加えて体温で温まってきた布団の中が生温かく、それがどうにも気持ち悪い。
ベッドから出て、椅子に座る。眠くなるまでこうしていようかと思ったが、眠気は一向にやって来ない。
アイラを起こさぬよう、そろりと部屋の中を移動して、風呂へ向かう。
タオルを濡らし、身体を拭う。ひんやりとした感覚が心地良い。
しばらくそうしていると、段々と身体の火照りが静まってきた。
そっと部屋に戻ると、アイラは気付いた様子もなく眠っている。
一つ欠伸が出たのをきっかけに、二つ三つと欠伸が出てくる。
今なら眠れそうだと、アンジェはベッドに潜り込んだ。
薄暗い部屋の中、椅子に座ったメオンが、じっとアンジェを見つめている。
いつも穏やかな笑みを浮かべているはずのメオンの顔は、今、厳しく引き締まっている。彼の茶色の目には、きつい色があった。
――なぜ、仇を討たないのですか。
静かな問いに、アンジェの喉まで出かかった言葉が凍り付く。
滅多にないことだが、兄が酷く腹を立てていることを、アンジェはすぐに悟った。
――元々、仇を討つのが、あなたの目的だったはずでしょう。なぜ、彼女と仲良く旅などしているのですか。
抜き刃にも似た、冷たい視線がアンジェを射抜く。
アンジェはどうにか息を吸い込み、声を絞り出した。
――兄さんが、間違っていると思ったからです。あなたは、アイラが異教徒であるというだけで、殺そうとしたのでしょう。でも、それは、『円環』の神、レヴィ・トーマの聖職者として、正しいあり方だとは思えません。
すい、と、メオンが目を細める。その視線に、アンジェの背筋が凍り付いた。
――あなたには、失望しました。
冷たい声でそう告げて、メオンはくるりとアンジェに背を向けた。
翌朝、眠たげな顔でアンジェはベッドから起き上がった。
隣では、アイラが寝惚け眼をこすりつつ、ベッドから身体を起こしている。
灰色の目を細め、眠たげに身支度を整えるアイラ。
服を着替え、腰帯を巻き、頭に細くバンダナを巻く。
それを見つつ、アンジェも着替えてはいたが、その手は度々止まっていた。
アンジェの視線に気付き、アイラが首を傾げる。
「……何?」
「ううん。気にしないで」
そう答えると、アイラはふうん、と興味もなさそうな声を返した。
朝食のために一階へ降りる。
朝食はたっぷりとバターが染み込んだトーストに紅茶、小さなガラス器に盛られたサラダ。
黙々と食事を進めるアイラと、同じように黙ってパンをかじるアンジェ。
しかし、食事が進まない。
「……どこか悪いのか」
「それ、あなたにも言いたいんだけど」
アンジェの言葉通り、アイラはサラダを食べ終えてはいたが、未だにトーストには手を付けていない。
肩を竦め、眠そうにトーストをかじり始めたアイラを見ながら、アンジェも食事を再開した。
食事を終え、簡単に支度を整えて外に出る。
宿から、市場や口入れ屋のある一角までは、やや距離がある。
じりじりと、日が肌を焼く。
やがて市場に入った二人は、それぞれ市場の探索と、仕事探しのために二手に分かれた。
時折人に揉まれながら、アンジェは市場を物珍しげに見回しながら歩いていた。
これまでの人生の過半を神殿で生きてきたアンジェは、ここまで大きな市場をゆっくりと見て歩いたことがなかった。
日用品、食料品、衣料、雑貨などを売っている店が多かったが、それに加えて家畜を商っている一角もあった。
普段のアンジェなら、そういった商品を物色したり、売り子の口上に耳を傾けたり、あるいは何か物を買ったりもしただろう。
しかし今のアンジェには、ゆっくりと市場を楽しむ余裕はなかった。
昨夜の夢の内容が、未だにはっきりと頭に残っている。メオンが“狂信者”だと知ってから、アイラを仇と思う気持ちは失せている。
彼女が兄を殺したことは変わらないし、その点でアイラを許したかと問われれば、完全に許したとは言い切れない。
だが、アイラばかりを責める気にはなれないのだ。メオンが死んだ原因は、彼がアイラを異端として、殺そうとしたことにあるのだから。
アイラと共に旅をしているのは、前に彼女に言ったように、神殿を離れて、社会を知りたいと思ったからだ。
規則に縛られ、ただ一心に神に祈るだけの、神殿での生活。その生活の中には、一般社会のものはまず入って来ない。それらは修行の妨げとなるものであり、害と判断されるものであったから。
アイラに実際に会わなければ、アンジェは“狂信者”の存在を知ることすらなかったのだ。
ぐるぐると、取り留めのない考えが頭の中を回っている。
考え事に没頭していたアンジェは、少し離れた場所で起きた騒ぎに気付かなかった。
どこかが壊れたらしく、不意に荷車が妙な音を立てて止まる。すると、それまで、大人しく引いていた馬が、突然狂ったようにいなないたかと思うと、そのまま地を蹴って走り出した。
それに気付いた人々が、悲鳴を上げて端に避ける。気付かないのはアンジェ一人。
「危ない!」
誰かの叫び声に、初めてはっと顔をあげたアンジェに、暴れ馬が真っ直ぐに向かって来る。
鈍い音と共に、悲鳴があがった。
その頃、アイラは顔見知りの口入れ屋を回っていた。しかし、中々手頃な仕事は見つからない。
仕事自体はあるのだが、子供にしか見えないアイラの容姿が原因か、色好い返事を得られないのだ。
姿を見て不審な顔をされ、遠回しに断られることが何度も続き、流石のアイラも段々苛立ってきた。
(……少し休むか)
近くの広場にでも行って休もうと歩き出したアイラの足が、ふと止まる。
(まただ)
誰かは分からない。しかし何者かが、自分を見ている。
さりげなく周りを見回してみたが、怪しげな人影は見当たらない。
アイラの眉間に軽く皺が寄る。
再び歩き始めたアイラの前方から、道を塞ぐように大柄な男三人が歩いて来た。
端に避けたものの、一番左にいた男が、乱暴にアイラに突き当たった。
「いってえな、おい! どこに目え付けてやがる!」
「……ぶつかってきたのはそっちだろう」
「何だと!? 生意気な口を利くな、ガキのくせに!」
ぴくりとアイラの眉が動いた。
「おい、小僧。大人への口の効き方も知らんのか?」
「……私は女で成人済みだし、自分の過失をさもこっちの過失みたいに言ってくるような輩に、丁寧な口を利く気もないね」
胸倉を捕まれ、引き寄せられる。次の瞬間、男の鼻に、切れたアイラの拳が叩き込まれた。
男の手の力が緩む。
「こんの野郎!」
三人に囲まれる。周囲に悲鳴やざわめきが広がる。
苛立ちが最高潮に達したアイラは、頭に血が上っている人間とは思えないほど冷静に、周囲の状況を捉えていた。
体格差だけを見れば、アイラの方が不利なのは火を見るよりも明らかだ。
加えて三人からの攻撃を、十分に避けられるだけの余裕はない。
結果、アイラは男達から飛んでくる拳や蹴りをひたすらさばいていた。
さばきながら、相手の力量を計る。
(……数に頼っているだけか。大したことはないな)
そう結論付けたアイラは、一転して攻勢をかけた。
正面の、狐のような顔の男が振るった拳をひょいと避け、下から顎を殴り付ける。
その一撃で気絶したのだろう、男が仰向けに倒れる。
次いで、怒号と共に迫ってきた鼻血まみれの男の顔に、身体を回すようにして裏拳を打ち込んだ。
向き直って見れば、鼻血男は口からも血を流している。地面に白いものも落ちていた。どうやら、歯が何本か折れたらしい。
両側から、腕を掴まれる。アイラの矮躯が一瞬伸び上がり。それから沈み込んだように見えたときには、二人の男は互いの頭を嫌というほどぶつけ、地面に伸びていた。
詰めていた息を吐き出し、ふん、と鼻を鳴らしてその場を去るアイラ。
そんな彼女を、人混みの中から見つめる人影があった。
口々に騒ぐ野次馬に気を取られた様子もなく、その男は苦虫を噛み潰したような顔で踵を返した。
→ 赤い報せ