去る者、来たる者

 誘拐事件から四日後、アイラはヨークの町を発つことにした。ジョン・ドリス――ルドルフ・フォスベルイを追うために。

 彼が東部に向かったことは、既にキキミミから聞いていた。

「あいつの隠れ家はいくつかあるからな。はっきりここだとは言えないが……」

 誘拐事件から一夜明けた日の早朝、訪れたアイラにそう前置きして、キキミミはいくつか東部の町の名を挙げた。アイラが知っている場所も、名前を聞いたことがあるだけの場所もある。

 宿に戻ってから、町の位置を確かめてみると、隠れ家は東部のあちこちに点在していた。

 ヨークから一番近い場所にある隠れ家は、マンユエにある、その次に近いのがリントウ、そしてチアウ。

 とりあえず一番近いマンユエに行くことにして、アイラは少しずつ準備を整えていった。

 本来ならすぐにでも発ちたかったのだが、事件の後始末や、シュリに関わることをきちんと片付けておく必要があったせいで、やや時間を食ってしまった。

 まず神殿に再び向かい、照会の結果、シュリの名で保存されている証明書がないことを確認した。

 同じ日の午後には、四人でフォスベルイ家を訪れた。シュリのことを話すためだ。

 シュリが持っていた服と、縫い込まれていた金属板のお陰で、シュリがエリーザ・フォスベルイであることは容易に証明された。

 その後で何が起こったか、詳しく語る必要はないだろう。

 シュリはエリーザとして、生家で暮らすことになり、またマティも、彼が望むなら、フォスベルイ家に養子として迎え入れられることになった。

 このことに対して、マティは少し考えると言い、すぐには受けなかった。それでも、後で聞いてみると、マティはその話を受けるつもりのようだった。

 聞けば、マティは孤児なのだという。親の顔も名前も、居所も、そもそも生死さえ知らず、物心ついたときには、既に路上で暮らしていた。マティアスという名も、かつて一度だけ出会ったレヴィ・トーマの聖職者からもらったものだった。

 そしていつからか、マティは芸人として生計を立てるようになった。そのきっかけが何だったのか、もう本人も覚えていない。

 一人で流れ歩くのは、苦労が多かった、と、マティは笑みに紛らせつつ、そう呟いた。

 笑みに紛らせてはいても、それがどれほどの苦労だったか、聞いているアイラにも察せられた。一人旅の苦労は、彼女もよく知っていたから。

 シュリを助けて、二人で旅をするようになって、いくらか苦労は減った。

 それでも、折に触れて、シュリが養父母の話をする度に、羨む気持ちが胸を刺したという。

「何か、変な気分だな。急に家族ができるってさ。でも、大丈夫なのか? ジョン・ドリスってやつのこと、放っておいて」

「放ってはおかないよ。あいつは、私が始末をつける。もう、フォスベルイ家にルドルフ・フォスベルイは戻らない」

 灰色の目に炎を燃やして、アイラはきっぱりと言い切った。

「それって……」

 マティが何か察して言いかけるのを、アイラは目で制した。

「何も言うな」

「分かった」

 それが二日前の話だ。その翌日には買い物を済ませたので、もういつでも出発できる。

「あんたはどうする、アンジェ? 一緒に行くか?」

「行くわ。……危険なのは分かってるけど、あなたを一人にしておけないもの」

 買い物を終えた日の夜、寝る前にそう尋ねると、すぐにそう答えが返って来た。

 アイラはさして表情を動かさず、ただ一つ頷いてベッドに入った。

 そしてヨークを発つ日、門の所にはシュリとマティ、それにイルーグまでが、二人を見送りに来ていた。

「二人とも、元気でね」

「……そっちも」

「お世話になりました」

「いや、こちらこそ。何かあったら、いつでも言ってくれ。力になろう。ああ、それと、」

 言葉を切り、イルーグは小袋を取り出した。

「少ないかもしれないけど、旅の足しにして欲しい」

「……確かに」

 袋を受取り、アイラが懐にしまいこむ。二人の姿が見えなくなるまで、親子は門から離れなかった。

 

 

 

 深夜、日付も変わる頃、潰れかけた、建て付けの悪い引き戸が、ガタガタと音を立てて細く開かれた。

 人が住んでいるようにはとても見えない建物の中からは、甘い、香の匂いが漂ってくる。

 ガタン、と、一際大きな音がしたかと思うと、引き戸が、はまっていた溝から外れ、外側に向かって倒れ掛かった。

 戸を開けようとしていた人影は、慌てた様に、両手で戸を支える。

「戸はそこに置いて、入って来たらどうだい」

 奥から、笑いをかみ殺したような響きと共に、男の声が響いてきた。

 人影は、戸を傍に立て掛け、屋内に入る。そこへ、手に灯りを持って、中肉中背の男が、奥の方からゆっくりと現れた。

 ゆったりした足取りで人影の傍を通りすぎ、男――キキミミは戸をあっさりと嵌め直した。

「やあ、随分ご無沙汰だったね、旦那」

 キキミミが手に持つ灯りに、人影が照らし出される。

 やって来たのは色の浅黒い、ひょろりと背の高い、鋭い目つきの男だった。黒っぽい、闇でも目立たぬような恰好をしていたのが、突然灯りの中に立たされて、どこか所在なげに見える。

 キキミミが、客を奥の一間へ招き入れる。座るが早いか、客は口を開いた。

「『舞闘士』の養女は今、どこにいる?」

 この言葉を聞いて、キキミミは面白そうに口の端を吊り上げた。

「あの娘なら、今日の朝、東部に行った。行先? マンユエかリントウか、それともチアウか……。ドリスの坊ちゃんを追っているようだから、大方行くならその辺りだろう」

 そうか、と客が呟く。

「で、旦那がそれを聞くってことは、舞闘士の養女が薬ってことでいいのかい?」

「障りは除かなければならない、ということだ」

「成程。薬を使うんなら、使い方には気を付けなよ。あの薬は、下手に扱うと毒になるからな」

「心得ている」

 客が去った後、建物の中も明かりが消え、辺りは夜の闇に包まれた。