司教邸にて

「十四年前のことだ。当時、コクレアの更に西にいたハン族は、“狂信者”によって、ほとんど全員が殺された。ただ一人、族長の娘だけを残して」

「いや、それは違う」

 アイラの言葉を、ヨルクは即座に否定する。アイラは表情を動かさず、ヨルクの言葉を待った。

 ヨルクが、以前アンジェに告げたのと同じように、重々しい様子で言葉を続ける。アイラを威圧しようとするかのように。

「ハン族は、野盗の襲撃で滅びたのだ。あの場にいた聖職者は皆、それに巻き込まれた者達だ」

 子どもに言い聞かせるような口調で話される言葉を、アイラは無表情で聞いていた。

 ヨルクの、頑なに自分の考えにしがみつき、それを変えない姿勢に既視感を覚える。

 ゆっくりと、平淡な声音で問いをかける。

「……それは、表向きの理由だろう? 事実は――」

「いや、ハン族は、野盗に襲われた。それが、事実だ」

 きっぱりと司教が言い切る。アイラの言葉を遮って。

 初めてアイラの表情が動いた。軽く眉を寄せて、司教に鋭い視線を向ける。その表情は、ランズ・ハンの神殿の奥で会った、あの従者が見せたものによく似ていた。

「司教、」

 アイラの声に、少し苛立った調子が混ざる。

「ここは、『誰にも邪魔をされず、誰にも聞かれることのない場所』のはずだ。私やあんたが何を話そうと、内容が漏れる心配はないはずだ。……私は何も、あんたに事実を認めろと言っているんじゃない。事実は、あんたも知ってるだろうし。ただ、こんなことがあったと言っているだけだ。それに、幽霊が出たという話もあったそうじゃないか」

「あなたは思い違いをしているのだ。あのときはまだ幼かったから無理もないだろうがね。ハン族の土地に来たのは巡礼。そして彼らごと、ハン族を殺したのが野盗だ。確かに幽霊がどうこうという話はあったが、今はもう皆忘れている。今更蒸し返す話ではない」

 きっぱりと言い切る司教。その額には、冷たい汗が浮いている。

 アイラの目に冷たい光が宿る。ヨルクの威圧など意に介さず、アイラは低い声で言い返す。

「別に蒸し返しているつもりはない。それに……あのことは、思い違いできるようなものではない。あんたはさっき、私は幼かったと言ったが、いくら私が幼かろうと、あの光景を思い違いなどできるものか。……目の前で兄が殺されて……私達は何もしてはいないのに、ただ信じる神が違うからという理由で、皆が殺されたあの日のことを、どうして思い違いなどできるというんだ」

 アイラの眼光の鋭さに、思わずヨルクがたじろぐ。

 ひたとヨルクを見据えるアイラの瞳は、石のように冷たい光を放っていた。

「『野盗に襲われた』という『表向きの理由』が必要だと分からないほど、私は馬鹿ではない。……納得は、していないけど。第一、あのとき理由を作るように言ったのは、あんただろう? “狂信者”に私達ハン族が殺されたことが広まれば、次に狙われるのは、コクレアだろうからと」

「そんなことは言っていない。何度も言うが、ハン族は野盗に襲われたのだ」

「…………なぜ?」

 やはりヨルクを見据えたまま、ぽつりとアイラが問う。ヨルクが怪訝そうな目をアイラに向けた。

「……私が全て知っていると、あんたは分かっているはずだ。なのになぜ、事実ではないことを、事実だと言い張る? 何の意味もないのに」

「あなたが、間違ったことを事実だと思い込んでしまっているからだよ。さあ、そろそろ本題に戻って、聖印を渡してもらおう」

 手を伸ばしてくるヨルク。腕を組み、記憶を辿るアイラの脳裏に、雪原に立つ、濃茶の長髪をした男の姿が浮かぶ。

(ああ、メオンに似ているのか)

 ようやく既視感の理由に思い至った。今のヨルクの姿勢は、あの異端審問のときの、“狂信者”の姿勢によく似ている。

 自分達が正しいと思い込み、故に考えの違う他人をとにかく間違っていると断じる。実際にそれが合っているのかどうかなど、考えようともせずに。

 胸の奥で、久々に暗い感情がうごめく。出口を求めて。

 アイラはそっと息を吐いて、おそらく彼を怒らせるであろう質問を投げかけた。

「……最後に一つ、聞く。……あんた、まさか、狂っているんじゃないだろうな?」

 この言葉を聞いて、ヨルクの顔が憤怒の色に染まる。“狂信者”として扱われることは、レヴィ・トーマの聖職者が何より嫌うことだから、無理もないだろうが。

「何と無礼な!! もう話すことはない。聖印だけ置いて、出て行って貰おう!」

 アイラは一切動じず、ヨルクを挑発するように、ふん、と鼻を鳴らす。

「出て行けと言うなら出て行くさ。……だけど、聖印は渡さない。絶対に」

「何だと!? 渡すと言う話だったではないか!」

「……馬鹿か、あんた。……私は一言も、あんたに聖印を渡すと言った覚えはない」

 ヨルクの額に青筋が浮かぶ。血管が切れるのではないかと不安になりそうなほどの表情を見せられながらも、アイラは顔色を変えなかった。

「……連れから話を聞いて……あんたの言うことはおかしいと思ったから、試すつもりでここに来た。試して良かったよ。……これをあんたに渡そうものなら、何をされるか分かったものじゃない。……これは、もっとふさわしい人に預ける」

 アイラの声は低く、その言葉に感情は宿らない。

 出て行こうと踵を返しかけたアイラの身体が、その場に釘付けにされたように固まる。

(『制止』か)

 内心で舌を鳴らし、アイラは『制止』を解こうと、ふ、ふ、と短く息を吐きながら、気合いを入れる要領で、全身に力を込めた。

(何だか、慣れてきたな)

 『制止』を破るのは、もう何度目になるだろうか。すでにコツは掴んでいる。

 ぐっと押さえ込まれる感覚を跳ね除ける。薄いガラスが割れるような音と共に、顔に冷汗を浮かせた青い顔のヨルクがよろめく。

「触るな」

 よろめきながらも伸ばしてきた手を払い除ける。勢いが強すぎたのか、ヨルクがその場に尻餅をつく。

 彼を見下ろすアイラの目には、はっきりと怒りと蔑みの色が浮かんでいた。

「この……異教徒の、癖に……」

 その言葉を聞いて、アイラの眉が高々と吊り上がった。

「……ああ、そうか。貴様、私達を見下していたわけか。こんな輩が司教になるとは、全く、世も末だ」

 先刻の、感情のない言葉から一転、アイラの言葉に感情が宿る。

 彼女の脳裏には、トレスウェイトで村人に囲まれたあのとき、エヴァンズが彼らに言った言葉と、幼い頃、ランベルトから聞いた言葉が蘇っていた。

『人にはそれぞれに信仰があるものです。ある宗教が優れていて、別のものは劣っている。そんなことはないのですから、隣人の信仰が自分のものと違うからといって、無闇に騒ぎ立てるようなことは、するべきではありませんね』

『誰かが自分とは別の神を信仰しているからといって、非難するのは良くないことです。非難するのではなく、知らなければならない。『円環』を作るためにも』

 彼らがもし、ヨルクを見たら、何を思うだろうか。

「……ここまで堕ちるか、レヴィ・トーマの聖職者も」

 怒りのあまり言葉も出ないらしいヨルクを余所に、アイラの言葉は止まらない。怒りの炎が冷たく燃える、灰色の瞳で彼を睨み据えながら言葉をぶつける。

「聞けば、貴様、アンジェに私を殺せと言ったそうだな。……貴様、それでも聖職者か!」

 手を伸ばし、ヨルクの胸ぐらを掴み上げる。渾身の力で引き寄せ、至近距離から凄まじい剣幕で怒鳴りつけた。

 アンジェがこの場にいたら間違いなく卒倒しそうな光景である。しかし元々、この老人への敬意など爪の先ほどもなかったアイラにとってみれば、ヨルクは最早自分やハン族を見下す、聖職者もどきとしか映らない。

「他人を誤った方向に進ませて、自分は知らぬ存ぜぬで通すつもりだったのかどうか知らないが、それが『円環』の神に仕える聖職者の行動か、ええ!? この恥知らずが!」

 ぐ、と手に力を込める。

「貴様には、聖職者を名乗る資格などない!」

 言いたいだけ言って手を離す。できればハン族が受けた痛みのほんの一部だと、顔に頭突きでも食らわせたかったが、流石にそこまでしては問題になるだろう。それに、仮にそうしたとしても、結局は自己満足になるだけだ。

「わ、私を誰だと思っている!」

「……異教の聖職者。いや、聖職者もどきか」

 ヨルクが言葉を失う。その顔色は青く、身体は細かく震えている。異教徒扱いされることも、聖職者『もどき』と言われるのも、おそらく初めてだったのだろう。

「このこと、許されると思うな……! 必ず報いがあると思え、罰当たりの異教徒が!」

 やがて、ヨルクが地の底から響くような声で、アイラに告げた。予言にも似た響きの言葉を、アイラはあっさりと一蹴する。

「恨むなら恨め。呪いたければ存分に呪え。どうせ神に届きはしない。似非聖職者の祈りなど」

 今度こそ、踵を返して立ち去るアイラ。背に注がれる、怒りと殺気の籠もった視線を感じながら。

(……敵を作ったな)

 どうでもいいけど、と内心で付け足す。いくら恨まれても、どうせ何もできはしないだろうから。