呼ばれた意味
「まず聞きたい。あんた達は元から私を……私達を贄にするつもりだったのか?」
灰色の目に見つめられ、イナは思わず口籠った。
「それは……私は……」
「また、知らないと逃れるつもりか」
アイラの声が冷たさを増した。イナは口をつぐみ、頭を振る。
「そんなつもりでは……」
はあ、と溜息を吐いたアイラは、一旦外に出ると、手水舎まで行き、湧き水を柄杓に汲んで持ってきた。
「ほら、これでも飲んで、落ち着いて話せ」
少しためらってから、イナは柄杓を受け取り、水を一口含んだ。
「初めから、贄をあなた方と決めていた訳ではないんです。ただ、あなたはサヤを助けてくださったでしょう? だから家に呼びやすかったんです。大主様の御式のときには、どうしても、贄が要りようでしたので」
水を飲んだことが良かったのか、イナの口からは少しずつ言葉が出てくる。
「なら贄は、私達でなくても良かったんだな」
「はい。本当にごめんなさい。受けた恩を仇で返すようなことを……」
「……誰も止めなかったのか」
「それが大主様の御意志だと、お義母様が仰ったので。大主様のことは、お義母様が全てお決めになっているんです。夫は言いなりですし、私が言っても到底聞いては頂けません」
そうか、と呟くアイラ。
「儀式は、どんなことをするんだ?」
「大主様を拝んで、最後に贄を大主様に捧げるんです」
「始まる時間は?」
「夜明け頃には始まるはずです」
もう一度外に出て、月を見上げる。位置からして、夜明けまではあと三時間くらいだろう。
(……あまり、時間はないな)
「あんた、明日一日、どこか身を寄せられるようなところはあるか?」
「え、ええ……あなたは、どうなさるおつもりですか?」
「あんた達には悪いが、連れをむざむざ贄にされたくはないからね。連れ戻させてもらうよ」
イナの顔色がさっと変わる。
「だ、駄目です! もうあの人は呑まれてしまっているんです! 仇を討つと言って……。あなたはきっと、殺されてしまいます! だから、逃げてください。夜明けには船もでますから……」
ふ、とアイラはスカーフの下で口の端を上げた。
アンジェの目的はそもそも兄の仇討ちだ。自分では、もうそんな気持ちはなくなったと言っていたが、何かのきっかけでその感情が再燃してもおかしくはない。
「討てばいいさ。最も、抵抗はさせてもらうがね。死にたくはないから」
そして自分も、その復讐心を知りながら傍にいる。彼女の復讐心を、当然だと思うから。
「でも、本当に殺されてしまったら……? 大主様なら、それも簡単にできるでしょうし……」
「向こうが神の威を借りると言うなら、私も父なるアルハリクの御力を借りるだけだ」
不敵な表情が、アイラの顔に浮かぶ。その表情は、若い女のものと思えないほど老成していた。
差し込む月明かりでその表情を見て取って、イナは思わず目を伏せた。直視してはいけないような、そんな気がした。
イナの様子に、アイラは首を傾げたものの、追求はせずに黙っていた。
自分が何をすべきか。胸の内で考える。
自分の命だけを思うなら、イナの言う通りここから去るべきだ。元々目的があって来た訳ではないのだし、去ったところで自分にとって不都合なことはない。
一人旅をしていたのなら、間違いなく、アイラはイナの言葉に従って、ここから去っていただろう。だが今はアンジェがいる。彼女を置いていくわけにも、贄にするわけにもいかない。
そこまで考えて、ふ、と自嘲するような笑みを零す。
一人で生きていくのではなかったのか、自分は。
気付けば、自分にとってアンジェの存在は、酷く大きなものになっていた。歪な繋がりではあっても、そんなことなど気にならない程に。
おかしなものだ。初めは彼女のことなど、どうでもいいと思っていたのに。
自分がこれからしようとしていることに、命の保証がないことは分かっている。だがそんなことは、アイラにとって珍しくない。怖じることもないし、尻込みもしない。
それに、彼女には、一度きちんと伝えるべきだ。自分が何を思っているのか。そのことを伝えるのに、丁度いい機会だと、アイラは思っていた。
何か考えているらしいアイラの顔を見ながら、イナは不安に苛まれていた。
アイラの顔に、もう絶望の色はない。しかしその代わりに、灰色の瞳は冷たく光って見えた。こんな表情を、イナはナナエの顔に見たことがある。贄を決めるとき、ナナエは今のアイラのように、感情を読ませない、冷たい目をしていた。
その記憶が目の前の女と重なり、イナの不安はいやが上にも増す。
「あなたは、何をするつもりなんですか?」
「……私がするべきことを」
「それは……まさか、贄になる、と?」
「いいや。私は贄になれないから。それでもしなきゃならないことがある。後悔する前にね」
言葉の端々から、彼女が既に決意を固めていることが伺えた。その決意が、よりも、アイラが口にした『贄になれない』という言葉の方が、イナには気になった。
贄に『ならない』のではなく、贄に『なれない』とはどういう意味なのか。聞き違えかとも思ったが、確かにアイラは『なれない』と言った。
「ならない、のでしょう? なれない、のではなくて」
「いや。私は既に"捧げられた"身。他の神のものにはなれない。だから、贄にはなれない」
イナにはアイラの言葉の意味が良く分からなかった。故に話は続かず、そのままイナは口を閉ざす。
アイラの方は近くの壁に背を預け、うつらうつらと船を漕いでいた。この先どうなるか分からないというのに、呑気としか思えないその姿に、戸惑いを覚える。
「あの、ここにいたままでよろしいんですか?」
「…………ん? ああ。どの道夜が明けるまでは、精々身体を休めるくらいしかできないし」
少し眠たげにアイラは答え、再び居眠りを始めた。
→ 二人が背負うもの