喪失
高級そうな調度品が並ぶ一室。柔らかなベッドに横になっていた女は、薄く目を開いた。
女の身体には、あちこちに包帯が巻かれている。
「お目覚めですか、お嬢様」
ベッドの傍に控えていたメイドの、安堵の籠もった言葉を聞いて、女は驚いたような顔でその方向を向いた。
その拍子にずきりと頭が痛み、女は顔を歪める。
「大丈夫ですか?」
「え、ええ……。あの、ここは?」
メイドは首を傾げ、妙なことを言う、と言いたげな顔になった。
「あなたのお部屋でしょう、エリーザお嬢様」
メイドが静かに部屋を出て行く。残された女は、エリーザ、と口の中で呟き、小さく首を傾げた。濃茶の髪が揺れる。
ノックの音と共に、先ほどと同じ、栗色の髪のメイドが入ってきた。
「もうすぐ奥様がいらっしゃいます。お身体の具合はいかがですか?」
「あの、私は……」
何かを言いかけた女だったが、その続きは口から出てこない。
「何でしょうか」
「私……私は、本当に、エリーザ、なのですか?」
女をちらりと見て、メイドはほとんど足音もなく近付き、女の耳元で早口に囁いた。
「奥様がいらっしゃったら、そんな様子は見せちゃ駄目ですよ」
状況が飲み込めていない女を余所に、ノックの音がした。
セルマが、不安げな、しかし安堵したような顔で入ってくる。
「一時はどうなるかと思ったけれど、無事で良かったわ」
にこりと柔らかな笑みを向けられ、ベッドの上で女は小さくなって頭を下げた。
「怪我も命に関わるものではないそうだし。傷跡も、そのうち消えるそうよ」
怪我に障ってはいけないから、とセルマはそれから二言三言話しただけで、メイドと共に部屋を出ていった。
部屋に一人残された女は、閉じられたドアを黙って見ていた。
しばらくして、そろそろとベッドの上に手をついて、起き上がろうとする女。少し身体を浮かせたとき、その表情が不意に歪む。
「痛っ、たぁ……」
それでもどうにか身体を起こし、痛む左腕に手を当てる。
「我が主よ、我に御力を分け与え給え。我が身の傷を癒し給え」
右手が熱を持つ。やがてその熱は左腕に移り、じんわりと全身に広がった。
熱が引くに従って、身体の痛みも引いていく。
女は手を伸ばし、サイドテーブルにあった手鏡を取り上げた。
肩を超す濃い茶色の髪と、同じ色の瞳。考え深そうな顔立ち。
鏡に映っているということは、これが自分の顔なのだろう。
だが、この顔に覚えがない。顔だけではない。自分の名も、過去も、今の女にはなかった。
女の手が、胸元を探る。そこにある何かを探すように。
しかし女の手に触れるのは、服の生地だけ。そこに何かがあるべきだと、朧気には分かっていても、それが何なのか思い出せない。
「私は、誰?」
女の口から、掠れた呟きが零れ落ちた。
二日後の夕刻、アイラは再びキキミミの元を訪れていた。
ここ二日、ろくに眠っていなかったせいか、アイラの顔色はひどく悪い。
「お前さんにしちゃ、腰が重かったじゃないか」
「……こっちにも、やることはある。で、首尾は?」
「一通りは、な。例の女、とりあえず、命に別状はないらしい。が、ちょいと厄介なことになってるな」
アイラの眉が吊り上がる。
「……厄介?」
「お前さん相手だから言うがね、フォスベルイ家の奥方が、その女に随分ご執心らしい」
「…………女好き?」
キキミミの顔に苦笑が浮かぶ。
「ご執心と言ったって、別に恋愛対象という訳じゃない。そう言えば、お前さん、フォスベルイ家についてはどこまで知ってるんだ?」
「……名前と、やり手の商家だということくらいだ」
アイラの答えを聞いて、珍しく、キキミミが唸る。アイラが首を傾げていると、彼はやがて一つ溜息を吐いた。
「そういえば、お前さんは旅烏だったな。なら知らなくとも仕方がない、か」
「何が言いたい」
「さぁて?」
飄々とアイラのきつい視線を受け流すキキミミ。
アイラは懐を探り、財布の中から金貨を一枚取り出した。それを放ると、金貨は綺麗な放物線を描いて低いテーブルの上に落ちる。
更に二枚、アイラは金貨を放り投げた。
「三ジン、加えてこれまでの貸し借りはなしだ」
今度はキキミミが眉を跳ね上げる。
「どういう風の吹き回しだ? お前さん、他人に興味はなかったろう」
「ないさ、今でも」
「ならなぜ、ここまで知ろうとするんだ?」
真顔で問いかけられ、アイラは肩を竦めて見せた。
「……連れの安否を、気にしちゃ悪いか?」
キキミミは、しばらく黙ってアイラの顔を値踏みするように眺めていた。彼女の本心を探ろうとするかのように。
アイラの方は、石のように冷たい瞳をキキミミに向けている。灰色の目に、感情は浮かばない。
たっぷり一分は続いた静かな睨み合いは、キキミミが、視線を逸らせることで終わった。
「金は要らん。貸し借りなしになるだけでありがたい。……今から、二十年程前の話だ。その頃、フォスベルイ家には、エリーザという娘がいた。娘と言ったところで、まだ生まれて半年かそこらの赤ん坊だったがな。一人娘で、まあ可愛がられて育てられていたんだが、ある日、乳母に連れられて外出したときに、その乳母共々姿を隠しちまったのさ。それから、あそこの奥方は、どっかおかしくなっちまった。息子が生まれてからは、大分落ち着いたらしいが、前は酷かったよ。背格好の似た人間なら、誰でも娘か乳母に見えるらしいんだな。何度騒ぎを起こしたことか」
金貨をしまいながら、アイラは話を聞いていた。その顔に、厳しい表情が浮かぶ。
「……なら、ご執心、というのは、その女を、自分の娘だと思っている、ということ?」
「みたいだな。女の方も否定する訳でもないらしい。屋敷の人間も、また奥方がおかしくなるよりは、って言うんで、見て見ぬふりみたいだしな。むしろ、奥方を落ち着かせるために、エリーザかどうかも分からん女を、エリーザとして扱ってるみたいだ」
「……そうか。感謝する、キキミミ」
建物の中から通りに出て、アイラは一つ息を吐いた。きつかった表情が、初めて少し緩む。
(生きていてくれるなら、それでいい)
どうやらアンジェが生きているらしい、という事実は、アイラにとってはひどく安堵することだった。
同時に、どっと疲れが襲ってくる。
ここ二日、少しでも手がかりが掴めないかと、ヨーク中を走り回り、夜もろくに眠れていなかったのだから、ある意味では当然のことだ。
早く休もうと、宿に戻りかけたときだった。
正面から急ぎ足でやってきた初老の男が、足をもつれさせた拍子に、アイラにぶつかった。
「おお、失礼。怪我はないかね、お嬢さん」
「……大丈夫」
男はアイラに向かって頭を下げ、再び急ぎ足で歩み始めた。
アイラも、やや駆け足で宿まで戻る。
すぐにでもベッドに倒れ込みたかったが、その前に風呂に入ろうと、巻いていた帯を解いたときだった。
はらり、と床に紙片が落ちる。
拾って見てみると、紙には乱暴な文字で一言、『出て行け』とだけ書かれていた。
(あいつか!)
アイラの脳裏に、あの初老の男の顔が浮かぶ。
ぶつかった瞬間、帯に差し込んだに違いない。
ぐしゃり、とアイラの手の中で紙片が握り潰された。
「……誰の差し金だか知らないが、後悔させてやる……!」
アイラの顔に、凄まじい憤怒の相が浮かんだ。
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