回廊での問答

 翌日、昼過ぎになって、アイラはようやくベッドから起き上がった。

 一つ伸びをして、服を着替えて一階に降りる。

 食堂に向かい、固焼きパンとオムレツを頼む。

 落ち着いて味わうほどの余裕はまだなかったが、出されたものを食べきるだけの余裕は生まれていた。

 食事を終え、宿を出る。

 どこに行こうという目的はない。だが、アイラがここにいることは、必ず“狩り手”に伝わるはずだ。

(とりあえず、“狩り手”は絶対に突き止めて、殴る)

 内心、そう決意を固める。

 アイラの目に一瞬、きつい光が宿った。

 目的がないとはいえ、市場を歩き回ることは決して無駄ではない。

 市場は人が集まる。品物が集まる。そうなれば、当然情報も集まってくる。

 アイラはゆっくりとした足取りで市場を歩き回りながら、周囲で交わされる会話をぼんやり聞いていた。

 視界の端で何かが動いた。その方に顔を向けると、シュリとマティがアイラを見つけたのか、手を振っている。

 アイラも軽く片手を上げる。

 シュリが襲われてから、二人はヨークでも共に行動するようになっていた。

 アイラ自身は、彼らに何も語ってはいないが、人の口に戸は立てられぬという例えの通り、アイラの事情は知らないところで広まっていたらしい。

 この二人も、いつしかアイラの事情を知り、何かと気にかけてくれていた。

 ガタガタと音を立てて、軽馬車が通り過ぎていく。何気なく、それを見上げたアイラの目が、大きく見開かれた。

「……アンジェ!!」

 叫んだアイラと、馬車に乗っていた濃茶の髪をした女の目が合った。女の顔がはっと強張る。

 馬車が止まる。女の向かいに座っていたセルマが振り返り、きつい視線をアイラに向けた。

「エリーザ、この方、あなたのお知り合い?」

 この言葉に、今度はアイラの顔が少し強張った。

「……え、あの……どなたですか?」

 困惑した様子で女が答える。

 その答えを聞いて、アイラの顔から色が失せる。

「…………失礼した。人違いだったようだ」

 しばらくの沈黙の後、丁寧に一礼し、アイラが踵を返す。

 それとほぼ同時に、馬車は再び動き出した。

 馬車の中から、女はじっとアイラを見つめていた。

(……あの人、どこかで……)

「どうしたの?」

 隣に座るダニエル・フォスベルイに問われ、女は小さく首を振った。

「何でもないの。あなたは、大丈夫? 少し、顔色が悪いようだけれど――」

 言いかけた女の脳裏に、一瞬、誰かの面影が浮かぶ。

 それが誰かを突き止める前に、その面影は消えてしまった。

 その頃、アイラは道端の木陰で座り込んでいた。シュリとマティも同じように座っている。

「やっぱり、追いかけた方がいいんじゃないか。あんたの探していた人で、間違いないんだろう、あの女の人」

「……間違いない。だが、追うな、マティアス」

「何でだよ」

「……彼女は、私のことを覚えていなかった。……それに、私は彼女に何かを言う資格はない」

 ふ、とアイラの顔が曇る。

「どうして?」

 これはシュリの問いだ。

 アイラの灰色の瞳に、凄絶な色が、ほんの一瞬浮かんで消えた。

「…………彼女の大事な人間を……アンジェの兄を、殺したのは私だ。アンジェが今幸せなら、私は何も言えない」

 この告白に、二人の顔が引きつる。

 そろそろ戻ろうかと、ふらりと立ち上がる。その顔は、完全な無表情だ。

「なあ、おかしな気を起こすなよ?」

 マティの言葉に、アイラは肩を竦めてみせた。

 宿に戻ると、アイラは真っ直ぐに風呂に向かった。

 続けざまに何度も、冷たい水を頭から浴びる。

 髪の水気を取って、誰もいない部屋に戻る。

 二人分の荷物。ベッドの傍に置かれた衣服。その持ち主だけがここにいない。

(もう、戻ることはないのだろうな)

 そんな考えが浮かぶ。胸の奥に、さっと鋭い爪で引掻かれたような痛みが走った。

 アイラは重い溜息を吐いて、ベッドに腰掛けた。

 ここまでアンジェに情を移していたとは思わなかった。

 全て失ってから、ただ一人で生きてきた。これからもそうするつもりだった。

 アンジェのことは、偶然知り合った連れで、深く関わる必要はないと思っていた。

 元々、仇だと思われていたのだ。もう、アイラへの殺意はないと聞いても、驚きはしたが、特に何とも思わなかった。

 いつしか日は落ち、部屋の中にも闇が降りている。

 アイラの姿も、闇に紛れていた。

 真っ暗な部屋の中、アイラはゆっくりとベッドに倒れ込んだ。

 

 

 

 左手の疼きで目を開ける。

 アイラは再び、金の燭台が並ぶ白亜の回廊にいた。ここは二度目だが、やはり覚えはない。

 疼く左手を見ると、そこには思った通り、目の紋様が浮いていた。

 何か聞こえるかと待ってみたが、今回は何も聞こえてこない。

 どうしたものかとその場に佇むアイラの顔に、緊張が浮かぶ。

(誰かが来る……?)

 やがて現れたのは、黄金の鎧を着けた、金髪金眼の男だった。鎧の胸元に、覚えのある、円が二つ連なった紋様があるのを見て、アイラはすぐに男の正体を悟った。

「レヴィ・トーマ。異教徒の娘に、何の用です」

「そなたに、話があって呼んだまで」

「……話?」

 内心混乱しつつ、アイラは小さく首を傾げた。

 これがアルハリクと言葉を交わすのであれば、アイラも混乱することはない。神と言葉を交わし、その言葉を他に伝えるのが、“門”たるアイラの役割なのだから。

 が、しかし、全く関わりのない、異教の神と言葉を交わしたことなどない。

「……どうやって、私を?」

「印が付いていた。それに、そなたには元々、その素質があるようだ」

「印?」

 左手を指し示される。今は疼きもおさまっているが、紋様は浮かんだままだ。

 どうやら、レヴィ・トーマの聖職者であるアンジェから受けた祝福が、アイラとレヴィ・トーマを繋ぐ導となったようだ。

「……それで、話とは?」

 淡々としたアイラの態度に、レヴィ・トーマの眉が上がる。

「額づきもしないのだな、そなたは。神の前にいるというのに」

 感心とも呆れともつかない言葉に、アイラはやはり淡々と言葉を返した。

「私の信じる神はあなたではない。故に、私はあなたに対して膝を折る義務はないはずだ」

 アイラは真っ直ぐにレヴィ・トーマを見て言い切った。

「良かろう。そして問おう、神と通じる娘よ。そなたはアンジェのことをどう思っている?」

「……連れ、と」

「アンジェは、そなたにとってどういった存在だ?」

 鋭い視線を向けられたアイラは、正面からその視線を受け止めた。

「…………自分の次には、大切だと言えるだろうな」

 しばらく考えて、そう、言葉を落とす。

「それでは、今後どうするつもりだ?」

「今後? ……さて。私は当分旅烏を続けるし、アンジェに関しては、彼女の意思次第だ。私に、口を挟む資格はない」

「そなたは、我が信者達への自分の所業を後悔しているか?」

「……それが“狂信者”共を殺したことなら、否、だ。例え時間を戻せたとしても、私は同じことをする」

 レヴィ・トーマの顔を見上げ、きっぱりと言い切る。仮にここで彼の怒りを買おうとも、そんなことはどうでも良かった。

「では、今のそなたの望みは何だ?」

 その問いに、アイラは小さく唸って考え込んだ。

「そう、だな……。望み、というほどの望みはない。今は」

「では、そなたにとって、最も大切なものは何だ?」

「私自身だ」

 アイラは一瞬も迷うことなく、即座に、簡潔に、答えを返した。レヴィ・トーマの眉が上がる。

「ならば、私がそなたの命を、今ここで、奪うと言ったら、どうする?」

 アイラの瞳に、炎が宿った。

「それならば、私は逆らおう。最期の一瞬まで」

 そう答えると同時に、レヴィ・トーマからアイラに向けて、凄まじい殺気が向けられた。

 窓のないはずの回廊に一陣の風が吹き、蝋燭の灯りがかき消える。

 風はアイラの髪を乱し、突き刺すような寒さを送る。

「只人が、私に逆らうと?」

 呼吸すら困難になるほどの威圧感と殺気。

 しかしアイラは、それでも尚、燃える双眸で、異教の神を見つめていた。

「人だからこそ、逆らってやる! 貴様が何をしようとも、私を本当に殺すことなど、できはしない!」

 無意識に構えをとったアイラの身体からも、殺気が膨れ上がった。

 神の前では、取るに足りない抵抗。しかしそれは、言葉よりも雄弁に、彼女の意思の強さを物語る。

 不意に、風が止む。燭台にも、元の通りに灯りが点る。

 アイラはゆっくりと構えをといた。その額には、薄く汗が滲んでいる。

 レヴィ・トーマは、しばらくの間、瞑目して佇んでいた。アイラも黙ったまま、その場に立って彼の言葉を待つ。

「そなたの考え、よく分かった。もう、行くが良い」

 アイラに背を向け、レヴィ・トーマがゆっくりとした足取りで立ち去る。

 やがて、その姿は遠くに霞んで消えた。

 

→ 猟師二人