変化の種

 夜がすっかり明けて、雌牛の乳搾りのために外に出たミウは、戸口のすぐ傍にアイラがしゃがんでいるのを見つけてぎょっとした。そこらの雪は踏み荒らされ、アイラは荒く息を弾ませている。

「大丈夫?」

「……ん。ちょっと動いてみた、だけ」

 ふう、と吐息を一つして立ち上がるアイラ。途端に目眩でも起こしたのか、壁に手を当てて身体を支え、顔を歪める。

「もう。ほら、入って休みなよ。無理しないで」

 アイラは口の中で何かもぐもぐ言ったが、やがてゆっくりと家に戻って行った。

 ミウはそれを見送り、それから元々の目的を果たすべく家畜小屋へ入る。

 しばらくの間、家畜小屋の中では牛乳が桶に溜まる音と、ミウの独り言だけが聞こえていた。

「ああ驚いた! ほんとに大丈夫だといいけど。でもアイラって一体どんな人なのかしらね? 変わった入れ墨をしてたり、それに金貨を持ってたり。ほんと、変わってる」

 牛乳桶が一杯になると、ミウはそれを両手で持って、吹雪のときにつたって戻れるよう、家と家畜小屋の間に張ってある綱を横目に見ながら、暖かな家の中へ入った。

 牛乳をブリキの缶に移して蓋を閉め、物陰に置く。手慣れた様子で一通りの作業を終わらせ、テーブルにつく。

 テーブルの上には朝食の準備が整っている。バターを塗って焼いたパン、肉と玉葱の入ったクリーム煮。これは二人の好物であり、得意料理でもあった。

 双子が互いに喋るのを、アイラは黙ってスプーンを口に運びながら聞いていた。彼女のスプーンを持つ手は、リウが微笑む度に止まり、ミウが快活な声を上げる度に止まる。

 アイラ自身は気付いていなかったが、彼女の胸の奥には既に、確かな変化の種が蒔かれていた。

 朝食を終えると、ミウは買い物のためにトレスウェイトへと出かけた。その間にリウは家を掃除し、洗濯物を取り込む。アイラも慣れない様子でそれを手伝っていた。

 アイラは身の回りのことをするのには慣れていたが、リウのように家事をしたことはない。幼い頃は周りの大人が大抵の用は足してくれたし、旅をするようになってからは、家事をする必要はなかったからだ。

 それでもアイラは、見様見真似で黙々と手を動かしていた。

「無理はしないでよ」

 リウの言葉にアイラがこくりと頷く。静かな時間が流れていた。

 日の入りが近くなる頃、ミウが戻ってきた。手にパンや卵の入った籠を下げて。

「ただいま。うう、寒かった」

「お帰りなさい」

 リウが生姜を混ぜた紅茶を渡す。ミウは吹いて冷ましながらそれを飲む。

 夕食は丸パンとクリーム煮、そして豚肉の蒸し焼きだった。

 テーブルを囲み、ミウはトレスウェイトであったことや、人々の間で交わされていた噂を、いつもの快活な調子で喋った。

「それから、新しい牧師さんが奥さんと小さい娘さんと一緒に今朝来られたんだって。でもまだ牧師館の準備ができてないから、準備ができるまではリーズ小母さんのとこに泊まられるそうよ」

「ふうん。あんた牧師さんか誰か見て?」

「ううん、誰も。でも落ち着いたら挨拶に回られるらしいから、家にもいらっしゃるかもしれないわね」

 トレスウェイトのような小村では、少しの変化でも大きな事件となりうる。新しい牧師の就任も、その一つであった。

 長年の間この村で説教をしていたニース牧師は高齢を理由に職を辞し、後任のエヴァンズ牧師が妻子と共に村に来たのである。この若い新任の牧師は、村の土を踏んだその瞬間から、村人たちの好奇の視線にさらされることになった。

 そのために、この日牧師の逗留先であるリーズ夫人の家にはひっきりなしに訪問者が訪れていた。それもそれぞれに小さな理由をつけて。

 例えば、夫人に以前借りていた本や裁縫の道具を返しに来たり、逆に差し迫って必要でもない、ちょっとしたものを借りに来たり。また婦人会の会員である数人の婦人は、会長であるリーズ夫人に、次回の会合の日取りや内容について相談にきた。若い牧師やその妻子を、一目だけでも見られないかという思いからの訪問であったのは言うまでもない。

 しかし村に着いたばかりの牧師が、すぐに人々の前に姿を見せるわけはなく、運の良い数人が小さな娘の姿を見、また幾人かが、閉められたカーテンに映る背の高い影を見ただけであった。

「ああそれと、何だか良く知らないけれど、盗賊だか山賊だかがこっちの方に逃げてきてるみたいで、気を付けなさいって言われた」

「物騒ねえ。戸締まりをちゃんとしておきましょ」

 アイラは何も言わなかったが、少し顔を上げてミウを見た。

(まさか……?)

 アイラの胸を不安がよぎる。

「……ご馳走様」

「あら、もういいの?」

「うん」

 食器を流しへと持って行ってから、アイラはほとんど足音を立てずに部屋へと戻った。小さな、囁くような声で祈りを唱える。

 祈りが済むと、彼女は目を開けて窓に目を注いだ。窓ガラスは鏡のようにアイラの顔を映し出す。

 鏡像越しに目を凝らす。空は曇っているようだったが、白い雪がぼんやりと見えた。

 しばし外を見ていたアイラの眉が、不意に軽く寄せられる。その目は、離れたところの下藪の一群に据えられている。

 やがて小さく首を振ったアイラはランプを吹き消し、ベッドに潜り込んだ。

 真夜中。東部の言葉で言えば丑三つ時と言われる頃。玄関のすぐ脇の窓が、小さな、カチリという音を立てた後でからりと開いた。

 そこから一人、小柄な、猿のような顔の男が家の中に入り込む。男は素早く玄関の鍵を開け、外に向かって三度、ほう、ほう、と鳥の鳴き声に似た声を上げた。ほう、ほう、と同じ声が返って来る。それから間もなく、更に二人の浮浪者のような男が戸口に現れた。三人は顔を見合わせ、にやりと笑う。これからのことに期待するように。

「ここか、ガス? 女が二人、しかも金もある、っつうのは?」

「おう。しかも町から離れてる。ねぐらにするにゃ、手頃だあね」

「黙れ、ガス、ラオパルド」

「分かったよ、ブージャン」

 低い声で囁きながら、中に足を踏み入れる男達。しかし一歩踏み込んだところで、彼らは足を止めた。

 男達の眼前には、いつの間に来たのか、一人の女が椅子に座っている。灰色の髪の女は頬杖をつき、眠っているのか目を閉じている。

「何だ、人形か? 脅かしやがって」

「……うるさい」

 唸るような声。見れば女が頬杖をやめ、椅子から立ち上がって不機嫌な顔と目つきで男達を睨んでいる。一人一人の顔を確かめるように見た後で、女は一言、違うのか、と呟いた。

「……何の用?」

 男らはぽかんとして目の前の女を見ていた。灰色の髪を短く切り揃えた、まだ子供にしか見えない小柄な女。

「とりあえず、金と、酒を出して貰おうか?」

 一番背の高い、荒々しい顔の男、ブージャンが女の鼻先にナイフを突き付ける。女は微動だにせず、灰色の目でブージャンを見返している。

「このガキ、イカレてんじゃあねえのかあ?」

 ラオパルドの言葉に、女の――アイラの顔が不快気にしかめられる。

「……私は成人済みだ」

 次の瞬間、ブージャンが持っていたナイフが床に叩き落とされた。ナイフはそのままアイラに蹴り飛ばされ、床を滑る。

「……さっさと出て行け。今なら見逃す」

「何だと? 生意気な口利くじゃねえか、ガキの癖に」

 鈍い音。腹を思い切り殴られたブージャンが呻いてうずくまる。

「成人済みだと言ったはずだが。木偶が。耳もなければ頭もないのか」

 アイラの言葉に、残る二人が殺気立つ。アイラは軽く足を広げ、挑発するように鼻を鳴らした。