夜の回想

 夜、アイラはふと目を覚ましてベッドの上に起き上った。ここ二週間ほど、これまでの穏やかな天候が嘘のように、荒れ模様の日が続いており、寝る前に、窓が壊れはしないかと、雨戸を閉めていたため、外の様子は分からないが、家の中が静まり返っているところをみると、まだ夜も明けていないのだろう。

 すぐに眠れるだろうとしばらくぼんやりしていたものの、どうにも眠気はやってこない。

 起き上がり、ベッド脇の小さなテーブルに置いていたランプに火を灯す。明かりがなければ、さすがのアイラでも何も見えない。

 長く寝ていたわけではないが、元より仕事をしているわけではなく、疲れているわけでもない。十分に寝た気分だ。

 明かりのせいか、余計に目が冴えてきてしまった。

 さすがに手元がやっと見える程度の明るさでは、アイラも木工をする訳にはいかない。ナイフの扱いには慣れているとはいえ、手元が暗いと自分の手を切りかねない。

 火の気のない部屋はしんしんと寒い。ベッドに座っていると身体が冷えてきたので、アイラはもそもそと、暖かいベッドの中へと足を戻した。

 冬の夜は長い。早く日が落ち、夜明けも遅いため、余計に夜が長く感じる。

 幼い頃の冬の夜は、アイラにとっては勉強の時間だった。教師役は叔母のレイシで、文字の読み書きの他、教典も叔母から教わっていた。

 族長ヤノスの妹だったレイシは、ハン族にとっては先代の“アルハリクの門”にあたる。レイシもまた小柄なひとで、いつも灰色の髪をきっちりと結っていた。アイラにものを教えるときには、ぴしぴしと、厳しい言葉を使うこともあったが、その日の勉強が終わると一つか二つ、昔話や民話、童話を話して聞かせてくれた。今のアイラが知っている物語は、ほとんどこの叔母から教わったものだった。

 こういうとき、叔母は子供が楽しむようなものを選んで話をした。子供を怖がらせて教訓を植え付けたり、また嫌な子供が罰としてその報いを受けたり、といった、説教じみた物語は絶対に話さなかった。

 一つには、そういった教訓話めいた説教話を、レイシがほとんど知らなかった、という理由があったが、もう一つ、必要以上に子供を脅かしてしつけるようなやり方を、レイシが好まなかった、という理由もあった。

――闇の中にお化けや鬼なんかいはしません。あれはお話の中だけにいるんです。怖い怖いと思うから、何でも恐ろしく見えるんです。ちゃんと目を開いて、しっかりものを見てごらん!

 そう言って、レイシはしばしば、小さいアイラを夜中に外へと連れ出した。

 アイラは初めのうち、夜中に外へ出ることが恐ろしかった。昼は何ということのないハン族の天幕も、近くの灌木の茂みや何かも、月明りの元では、何だか奇妙で、得体のしれないものに思えた。

 けれど、叔母の言う通り、ちゃんと目を開いて、しっかりものを見れば、天幕はやはり天幕だったし、灌木はやはり灌木だった。

 恐れるようなものは何もないと分かれば、むしろ夜中の外出は、昼に見えないものが見えるので面白いものだった。

 一度ハン族の間で大騒ぎになった、アイラとオレル、そしてその友人達が、おまじないのために、こっそり家を抜け出した一件も、実のところ、夜の闇を恐れなくなったアイラが、おまじないを知って、やろうと言い出したのだった。

 もちろん後から、五人は――とりわけ、言い出しっぺのアイラは――大人達から大目玉を食ったし、レイシもヤノスから小言を言われたらしかった。

――さあ、アイラ、ちゃんと目を開いて、しっかりものを見てごらん!

 それでも叔母は口癖のように、いつもアイラにそう言っていた。夜中の散歩も――いちじは中断されていたものの――、そのうちまたするようになった。

 叔母もまた、既に世を去っている。彼女は“狂信者”の手にかかったわけではなく、病で、アイラが十歳になる半年前――ハン族が滅ぶ半年前――に、アイラの言葉を借りるなら、アルハリクの元へと行っていた。

 この叔母は、今のアイラを見て、どう思っているのだろうか。アイラと同じように、アルハリクに身を捧げた叔母とは、死後に顔を合わせることは叶わない。

(叔母様、私は叔母様から見て、立派にやっているでしょうか?)

 胸の内で問いかける。

 アイラの覚えている限り、レイシは少なくとも、アイラの“門”としての度量には何一つ、小言を言ったことはなかった。むしろ、アイラが教典をそらんじてみせると、何とも大げさに思われるくらいの言葉で誉めそやした。

 レイシが心配していたのは、小さなアイラの性格――無邪気で、人を疑うことを知らぬという、今のアイラとは真逆の性格――だった。

 叔母が今わの際に、アイラに遺した言葉は今でも覚えている。

――アイラ、いいこと。この世には、皆の気に入る人はないの。だからお前も、いつか誰かに嫌われるかもしれません。(こう言って叔母は激しく咳き込んだ)お前が自分とは違うからという理由で、お前をいじめる人に、いつか出会うかもしれません。でも……でも私やお前のお父様や……ハン族の皆は、お前が好きなのだから、そんな人に会ったって、自分が皆に嫌われていると思ってはいけませんよ。そうして、ね、ちゃんと目を開いて、しっかりものを見るんですよ。

 そのときは、アイラはまだ無邪気な子供だった。叔母の言葉を、ちゃんと理解したわけではなかった。

 今なら分かる。レイシ叔母が、何を心配してそう言い残したのか。叔母は幼いアイラの無邪気さ、純粋さ、素直さを案じたのだ。悪意に触れたとき、それがアイラを殺すことになりはしないか、と。

 その半年後、アイラが直面した悪意は、レイシが考えていたよりもはるかに強かった。逆にその強さが、アイラを他人に容易に心を開かぬ性格にし、結果として惨劇を見たショックを乗り越えさせることになったのは皮肉でもある。

 考え事に耽っていたアイラの耳に、誰かが階段を降りてくる足音が小さく聞こえてきた。間もなく、ぱたぱたと部屋を歩き回る音と、水の音が聞こえてくる。おや、と雨戸を開けてみると、朝の光がさっと部屋の中に差し込んできた。

 思わず手で光を遮りつつ、片手で雨戸を開ける。ランプの火を吹き消すと、ベッドから降りたアイラは手早く服を着替え始めた。

 シャツの上から厚手の上着を羽織り、いつものズボンをはいて、髪を多少整えつつ部屋を出る。台所から振り返ったリウと、ちょうど牛の乳しぼりに行くミウにおはよう、と声をかけると、双子は打ち合わせた訳でもないのに声を揃えて、おはよう、とアイラに返した。

 姉妹のあげた笑い声につられて、アイラも薄い唇に、少し微笑みを上らせた。

 朝の仕事がひと段落し、軽焼きパンとコーヒーの朝食を済ませたとき、控えめなノックの音がした。

「こんな早くに誰かしら?」

 怪訝な顔のリウに、ルークだったりして、とミウが茶化し、リウの頬にぱっと赤い花が咲いた。

 一番戸口に近いところに座っていたアイラが立ち上がり、ドアを開ける。戸口には、あの、木彫りを焼いたノルが、ほとんど雪を着ているのではないかと思われるほど、雪まみれになったコートを着て、毛糸のミトンをはめた両の手で、何かをしっかりと握りこんで立っていた。

「何か用でも?」

 いつものつっけんどんな口調で、アイラはそう訊ねかけ、少年の様子を見て、有無を言わさず、中へと引っ張り込んだ。

 双子、特にリウは、不満を示すように眉を上げたが、歯を鳴らして震えているノルを見て、黙って暖炉の薪を増やした。

「何しに来たの?」

 ミウが訊ねると、ノルは手を開き、握っていた木切れを三人に見せた。それは細長い木切れで、片方の端だけが円形に――多少歪ではあったが、大体において滑らかな円形に――削ってあった。

「自分で削ったのか?」

 ノルは、おどおどとした顔でアイラの表情を伺い、一つこっくりと頷いた。

「大変だっただろう」

「はい。……そのう、本当にごめんなさい」

 アイラはちらとリウの方に目をやった。リウは、むっつりとした顔でノルを見、それからこの娘には珍しく、むっつりとした、全く情のこもっていない声音でもって、分かったから、それをしまって、早くお帰んなさい、と告げた。

 ノルはおどおどと木切れをしまい込み、溶けかけた雪でじっとりと湿っているコートを着込んだ。

 じっとその様子を見ていたアイラは、やおら立ち上がると部屋に行き、コートを羽織って戻ってきた。

「村の入り口まで送っていこう。この天気だし」

 外ではまた荒れるのか、暗い雲が灰色の空を覆い始めていた。二人の間には、一言も会話はなかった。

 言葉通り、村の入り口までノルを送って行くと、ちょうど前から、半狂乱の体でルイン婦人がやってくるのに二人は出くわした。

「ノル! この……この悪党!」

 叫んだ婦人は、駆け寄りざまに、手にしていた傘をアイラに向けて振り上げた。その傘が振り下ろされる前に、偶然来合わせた牧師が、ルイン婦人の腕を素早く押さえた。

「お待ちなさい。一体どうされたんです?」

 牧師がそう問うが早いか、ルイン婦人がまくしたて始めた。

 朝、気付くとノルがいなくなっていた。この女は以前、ノルに悪い影響を与えようとした。この女は刺青を入れている。きっとどこかの悪い、ふしだらな女に違いない。そうしてノルを唆したのだ。なぜならノルはこれまでとてもいい子で、自分に黙って一人で出歩くなど、考えもしなかった子なのだから、云々。

「奥さんのお話は分かりました。そちらの二人からも、話を聞かせて頂くことにいたしましょう。どうぞこちらへ」

「いいえ牧師様。うちのノルはともかく、そこの女からなど、話を聞く必要はございません。その女は異教徒です。きっと悪魔から呪いを教わっているに違いございません! そんな女の言葉など聞いてしまわれては、牧師様も妙な呪いにかかってしまいます!」

 エヴァンズ牧師の目顔での制止を受けて、アイラはルイン婦人に食って掛かりたくなった衝動をやっとのことで押しとどめた。それは中々困難なことではあった。特に今のように、爆発寸前まで感情を高ぶらせていた場合には猶更に。

 牧師は穏やかにルイン婦人を諭し、牧師館でそれぞれの話を聞くことを承知させた。

 半時間ほど後、アイラは牧師の書斎で、牧師と向かい合っていた。母子の方は、階下の客間で牧師夫人が相手を務めているはずだ。

「……話は」

「ええ、聞きました。あなた方に非はないことですし、少年もそこは理解しています。後は私の方から話しておきましょう。お時間を取らせてしまってすみませんでした」

「……ああ、いや、それはいいんだ。そんなことはどうでもいいんだ。私が怒ってるのは、あの人が私の神を侮辱したからだ」

 アイラの言葉通り、怒りはまだアイラの目の奥で火のように燃えていた。

「それじゃ、失礼する」

 このままでは牧師にも八つ当たりをしそうで、アイラはぶっきらぼうにそう会話を打ち切った。

 コートを着直して、アイラはせかせかした足取りで、牧師館を出て行った。その途中、アイラの背に声がかかる。

 ぱっと振り返ったアイラに、相手が思わずちょっと後ずさった。一方のアイラは、頼まれ屋のルークの姿を認め、灰色の目を瞬いた。

「何か?」

「ああ、ええっと、あんたに手紙だよ」

 濃い赤の封蝋で止められた封筒を受け取り、礼を述べる。ルークは何か言いたげに考えている様子だったが、一言挨拶を残し、踵を返して去っていった。

 残ったアイラは、手にしていた手紙をひっくり返し、差出人を確かめた。

 ヤタの神殿の住所と、アンジェ、という名が、綺麗な文字で書かれている。しげしげと裏書を眺めていたアイラは、やがて手紙を丁寧に懐にしまうと、静かに降ってきた雪の中を、双子の家に向かって、足を進め始めた。