夜の教会

 宿を出たアンジェは、自分でもほとんど意識しない内に、教会へ足を向けていた。

 扉を押し開ける。油の差されない扉が、鋭く軋みをあげた。

 アンジェは思わず小さく息を呑み、辺りの様子を伺うように、しばらくその場に立っていた。

 やがて何の音も気配もないと気付き、そっと息を吐いて教会の中に足を踏み入れる。

 建物の中に、灯りになるようなものはない。しかし差し込む月明かりのおかげで、大体どこに何があるかは分かる。

 正面の壁に掛けられた、レヴィ・トーマを描いた絵が、アンジェを見下ろしている。

 その前にひざまずくと、自然と言葉が口をついて出てきた。

「主よ。どうか私に道をお示しください。私がこれから、どうすべきなのかお教えください」

 アイラを追い始めた頃は、ただ憎いとしか思わなかった。けれど彼女の過去と、兄の真実を知った今となっては、その気持ちも薄れ、むしろアイラへの同情の気持ちが沸き始めていた。そしてそのせいで、アンジェは自分自身が拠り所としていたものが崩れていくような感覚も覚えていた。

「こんな夜中に、ここまでいらっしゃるとは。何か、余程の事情がおありのようだ」

 不意に聞こえた声に、アンジェは驚いて振り返った。

 声の主は、ランタンを持った老人だった。黒いカソックの上から、金糸で刺繍がされた紫の上衣を纏っている。

 上衣に付けられた、司教の位を示す飾りを認め、アンジェは慌てて立ち上がると、正式な礼の形を取った。

「司教閣下!? あ、えっと、大変失礼いたしました。お休みの邪魔をするつもりはなかったんです」

「いや、私はただの老いた牧師だ。そんなにかしこまる必要はない。例え人が何と呼ぼうとも、ここでは誰もが同じ立場だ。……もしよかったら、今抱えているものを、話してみなさい」

 司教、ヨルク・トロメンスに促され、アンジェはぽつぽつと胸に抱えていたものを、言葉にし始めた。

 ヨルクは一言も口を挟まず、アンジェの話をじっと聞いていた。感情が高ぶったアンジェが、洪水のように言葉を綴っても、それを止めようとはせずに。

「お兄さんのことは、悲しいことだ。だが、同朋を残酷に殺した相手には、それなりの罰を与えるべきではないかね。多くの命を奪い、円環を乱すような相手なら尚更に。それと、ハン族の土地でのことは忘れなさい。読み取ったことも、実際に見たことも、全て」

 意外な言葉に、アンジェは目を丸くして司教の顔を見つめた。彼女が何か言いかけるのを制するように、ヨルクが言葉を続ける。

「ハン族は、哀れなことに、野盗の一団に襲われ、たまたまそこを訪れていたレヴィ・トーマの巡礼達共々殺されてしまった。他の者が何と言おうとも、それが真実だ」

 重々しいヨルクの言葉と、何よりもその迫力に、アンジェは思わず頷いていた。ヨルクが口の端に皺を寄せる。

「そうだ、その殺された在家の聖職者の聖印は、今持っているかね?」

「いいえ。アイラが、持っています」

「悪いが、聖印を持って私の元に来るよう、伝えてはもらえないかね? 私が預かって遺族の元に渡るよう、手配しておこう」

 その言葉に、どこか違和感を覚えたアンジェだったが、それを追求するのは危険だと、彼女の感が告げていた。

 丁寧に挨拶をして教会を出る。少しは混乱した頭が整理されるかと思ったが、逆にますます分からなくなってくる。

(どういうことなの。ランズ・ハンでのことが、全く違う話になっているなんて。司教様も、何だかおかしい)

 ひどく頭が痛む。ふらふらとした足取りでアンジェは宿へと帰り始めた。

「どうかしたのかい?」

 ちょうど掃除をしていたらしいアネットが、アンジェを見て驚いたように声をかける。しかしアンジェの耳には、その声もほとんど聞こえていなかった。自分がどう答えたのかも分からない。

 一方その頃、アイラはベッドの上に寝転がっていた。半分眠っていたのだが、ドアの開く音を聞いて身体を起こす。

 アンジェが少しよろめきながら入ってくる。その顔色がひどく悪いのを見て、アイラは眉を寄せた。

「……アンジェ?」

 低く声をかける。アンジェはぼんやりとアイラを見たが、その目はどこか焦点が合っていない。

「……大丈夫か?」

 アイラの言葉に、アンジェは何か呟いたものの、はっきりとは聞こえなかった。

 二、三歩歩きかけて、アンジェはその場に崩れるように座り込んだ。アイラは何気なしに彼女の額に手をあて、その熱さに驚く。

 熱で朦朧としているらしいアンジェをベッドに寝かせ、アネットにこのことを知らせる。

 急いで呼ばれた医師はアンジェを診察し、発熱はおそらく過労か心労のためで、数日安静にしていれば良くなるだろうと告げた。

 やがて医師が去り、アネットも去って、部屋は二人だけになる。

 ここまでの旅、加えて兄についての真実とランズ・ハンで起きた惨劇を垣間見たこと。倒れた原因は恐らくこれらだろう。

 これまでのことは、アンジェにとってかなり負担だったに違いない。

 アイラもほとんどアンジェを気遣うこともなく、自分のペースで歩いていた。アンジェが何も言わないのをいいことにしていたのも、認めざるを得ない。

 時々アンジェの額に乗せた布を取り替えながら、アイラはぼんやりと思いにふける。

 熱に浮かされ、うわ言を呟くアンジェ。その汗を、濡らした布で拭ってやりながら、アイラは珍しく、どこか心配そうな表情を浮かべてアンジェの傍に座っていた。

 

 

 

 ひどく熱い。それなのに寒い。苦しい。

 自分のものでない記憶が、目の前に蘇る。人々の、死の記憶が。

 目を背けたくてもそれはできず、ただ見ているしかない。

 思わず、助けて、と声をあげていた。

 冷たいものが触れる感覚。大丈夫、と低い声が遠くで聞こえた。

 

 

 

 遠慮がちなノックの音に。ドアを開けると、トレイを両手で持ったアネットが立っている。

「お連れさんの具合はどうなんだい?」

 トレイに乗せていたスープの入ったカップと、薬湯の入ったカップをテーブルに置きながら、アネットが心配そうに尋ねる。

「……落ち着いてはいると、思います。ご迷惑、おかけします」

「気にしないで、これでも飲んで元気つけなさい」

 スープのカップが差し出される。湯気の立つスープを冷ましつつ、少しずつ飲む。

 そのうちに、眠っていたアンジェが目を開ける。

「……薬、飲むか?」

 アンジェが小さく頷く。手を貸して少し身体を起こし、薬湯の入ったカップを渡す。顔をしかめながら薬湯を啜るアンジェ。

 やがて薬湯を飲んだアンジェは、小さく息を吐いて目を閉じた。額の布を濡らして取り替える。

「あんたも少しは休みなさいよ。何かあったら、いつでも言ってくれていいんだからね」

「ありがとうございます」

 アネットがトレイを持って部屋から出て行く。

 もう随分夜も遅くなっていたが、アイラは少しも眠気を感じてはいなかった。