夢と死
ごぼり、と、耳の奥で水が鳴る。
息苦しさに、思わず吐き出した呼気が、球になって上っていく。
歪んだ水面には、光が反射して暴れている。
どうにか浮かぼうともがくのだが、水をたっぷりと吸って、重くなった衣はそれを許さない。
水を含んだ衣は手足にまとわりつき、その動きを阻む。加えて水の冷たさで、手足の感覚はなくなりつつある。
息苦しさが、いよいよ限界になってきた。
せめて頭だけでも浮けば、呼吸ができるものを。
そんな願いを嘲笑うかのように、身体は沈んでいく。暗い、深い、水底へと。
はっと内へ息を吸って目を開ける。少しの間、アイラはぜいぜいと荒い呼吸を繰り返していた。
全身が水を被ったように、汗でじっとりと濡れていた。
湿った、柔らかい布が顔に触れる。
「かなりうなされてたわよ。大丈夫?」
呼吸を落ち着かせ、アイラは、ベッドの横に座るアンジェに、ぼんやりとした目を向ける。
ノドの森を抜けて、五人は日が落ちる前にレンヒルに着いた。それが二日前のことだ。
しかしそれで気が緩んだのか、元々体調を崩していたアイラがついに倒れてしまい、一行はレンヒルに留まることを余儀なくされていた。
アンジェの手を借りながら、ベッドから起き上がり、汗ばんだ身体を湿らせた布で拭く。
以前、毒刃で傷つけられた場所は、紫色に変色したままだ。一応、薄くなってはいるのだが、完全に消えるにはまだもうしばらくかかりそうだ。
汗を拭い、着替えてベッドに戻る。
まだ心臓はどきどきと脈打っている。きつくシーツを握り締めた。
「何か、食べたいもの、ある?」
わずかに首を振って、ない、と伝える。それだけの動作でも、頭が鈍痛に襲われた。思わず顔を歪める。
「なら、食べられそうなもの、貰ってくるから」
やがて、アンジェの足音が聞こえなくなると、アイラは再びベッドから起き上がり、コップに注いだ湯冷ましを呷った。
一人になると、部屋がやけに広く思える。
久しぶりに熱を出して、気弱になっているだけだと頭では分かっている。しかし気持ちは納得しない。
大人の自分の中に、子供の自分がいるような感覚。
それが、どうしようもなく腹立たしい。
(せめて、木の細工でもできればいいのだけど)
そう思っても、無理なことは分かっている。
ぼんやりしていると、思い出すのは過去の記憶。
四歳頃、まだ“門の証”がなかった頃。アイラは一度溺れたことがあった。ランズ・ハンの近くにあった泉で。
なぜそうなったのかは覚えていないし、どうして助かったのかも覚えていない。そもそも、溺れたこと自体、普段は思い出すこともなかった。
しかし、夢の中では、ぞっとするほど鮮やかに、そのときの感覚が蘇っていた。水音も、着ていた衣の感覚も、全て。
あのまま、水底に沈んでいれば、この身体も死んでいたのだろうか。
(……死にたくない)
明日も分からないような生き方だ。死の覚悟はしている。実際、ノドの森で毒刃にやられたときは、死ぬのだと思って覚悟を決めた。
けれど、こんなところで死にたくはない。
ノックの音。湯気の立つ器が乗ったトレイを手に、アンジェが入ってくる。
はい、と差し出された器の中には、胡桃粥が入っていた。
吹いて冷ましながら、ゆっくりと粥を口に運ぶ。熱のせいか、味はよく分からない。
粥を食べ終えたアイラに、アンジェが細い竹筒を手渡す。細い線で飾り模様が彫られた上部を持ち、少し捻ってから引くと、するりと中身が抜け出る。
中には三粒の丸薬が入っていた。丸薬を掌にあけ、口に放り込んで水で流し込む。
口に残る苦みを流すかのように、もう一口水を飲み、息を吐いて横になる。
「……夢を見て、死ぬことがあると思う?」
そう呟いたアイラの顔は、どこか怯えているように見えた。
アンジェは一瞬言葉に詰まったが、重い空気を振り払うように、軽く鼻を鳴らした。
「そんなこと、ある訳ないでしょ。大体、どうやったら夢を見て死んだってことが分かるのよ?」
それもそうかとアイラが僅かに口元を緩めた。
「熱のせいよ。そんなこと考えるのは。ほら、もう休みなさいよ」
言いながら額の布を取り替える。アイラはそっと息を吐いて目を閉じ、そのままうとうとと眠り込んだ。
アンジェは静かに部屋を出た。ちょうどそのとき、隣の部屋からネズが顔を見せる。
「様子はどうですか」
「ちょっと参ってるみたい。……もっと早く気付いてれば良かった」
低く言葉を交わす。
「あなたの責任ではないですよ。僕も止めるべきだったんです」
少女の声が会話を遮る。
「アイラ? ええ、大丈夫ですよ。そうだ、薬を足しておきましょうか」
アンジェが薬入れを手渡すと、ネズはそれを受け取って部屋に引っ込んだ。その場に残ったリイシアは、アンジェの服の裾を軽く引いた。
「なあに?」
リイシアはアイラの部屋の扉を指し、次いで自分を指さす。
「アイラのところに行きたいの?」
そう尋ねると、少女は幾度も頷いた。
「もう少し良くなってからね」
アンジェの言葉を聞いて、リイシアは、今度は一度だけ首を縦に振った。
「お、ちょうど良かった」
ぎしりと床板を軋ませて、手に袋を抱えたクラウスが大股に歩いてやってきた。
今の彼は腰に剣を帯びただけで鎧は着けず、髪を乱し、服もわざと崩して着て、昼間から騒いでいる遊び人のような風体になっている。
「アイラの様子はどうだ?」
「うん。今は落ち着いてるわ。熱は、まだあるけど」
「そっか。これ、渡しといてくれね? これくらいなら食えるだろ、アイツも」
紙袋の中には、リンゴとオレンジが入っている。
「そうね。後で渡しておくわ。……追われてるみたいな様子、あった?」
「いや。特に怪しげなヤツは見なかったよ」
袋を抱えてアイラの部屋に入ると、その音に目を覚ましたのか、アイラが顔だけを戸口の方に向けた。
「誰か、いた?」
「クラウスさん。果物、買ってきてくれたから、後で食べたら?」
「……ん、そう、する」
まだ眠たげに言葉を返し、アイラは再び目を閉じた。
額の布に手をやると、布は乾きかかっている。水に濡らして硬く絞り、額に乗せる。別の布で顔の汗を拭いてやると、アイラはそっと息を吐いた。
→ 少女の決意