宵時の稽古
日も落ちかけ、辺りが薄暗い中、裏庭でアイラとタキは対峙していた。アイラは肩幅程度に足を開いて立ち、タキの方も特に構えを取らずに立っている。
向かい合ったまま、互いの呼吸をはかる二人。
先に動いたのはアイラの方だった。姿勢を低くしつつ、一気にタキとの距離を詰める。
タキの腹に向けて拳を突き出す。が、そこにタキの姿はない。
それを疑問に思うより先に、アイラはとっさに身を伏せた。直後、彼女の頭上を、拳を一歩下がって避けたタキの蹴りが通り過ぎる。
ぱっと起き上がり、再びタキに肉薄するアイラ。
正確に急所をねらって繰り出されるアイラの拳や蹴りは、悉くタキにいなされる。
一方、タキの攻撃もアイラには届かない。考えるより先に、幾度も繰り返し繰り返し叩き込まれてきた動きで、アイラは攻撃を避け続ける。
タキが面白そうに口元を吊り上げた。それと同時に攻撃が激しくなる。
流石に『舞闘士』として名を馳せたタキだけあって、その動きは鋭い。アイラは段々と守勢に回らざるを得なくなっている。
その上避けるのも容易ではなくなり、既に数度、彼女はタキの拳や蹴りを受けている。
ある程度は加減されているのだろうが、受けたときの衝撃は無視できない。急所に喰らっていないだけましだろうが。
アイラの方でも二、三回、タキに拳を当てることに成功したが、さほどダメージになった様子はない。
体格から考えると当然のことだが、基本的にアイラの体術は、速さはあるが、タキのそれほど重くない。
だからこそ彼女はいつも、玉破を利用したり、鎧通しを使ったり、積極的に急所を狙って攻撃したりして、その欠点を補おうとしていた。
一瞬の隙をつき、アイラは正拳を叩き付けようとした。避けようとしないタキの腹に、拳がめり込む……と思われた次の瞬間、アイラの拳は勢いよく上へと撥ね上げられる。
(しまった!)
アイラの背筋に冷たいものが走る。
大きく隙ができたアイラの胴に、タキの拳が真っ直ぐに伸びてくる。
小柄なアイラの身体は思い切り後ろに吹っ飛び、そのまま地面を転がる。しかしアイラはすぐさま立ち上がり、呼吸を整える。
「後ろに跳ぶことで衝撃を受け流したか。前より機転を利かせるようになったじゃないか」
タキの言葉に、アイラは一瞬口の端を持ち上げた。
実際は上手く受け流せたわけではなく、腹に鈍痛があるのだが、そんな様子は欠片も見せない。はったりを利かせることも、いつともなく学んでいた。
再び距離を詰めたアイラは、その勢いを殺さぬままに蹴りを放つ。
鈍い音。タキがその蹴りを交差させた両腕で受け止める。刹那、タキの顔がわずかに歪んだ。
足を戻すアイラに向けて、今度はタキが踏み込んでくる。
辛うじてタキの拳を払いのけたアイラだが、その動きのために、タキに懐に入られる結果となった。
アイラの身体が宙を舞う。低く、鋭い投げは、アイラに受け身を取る余裕を与えない。
背中を地面に打ちつけられ、息が詰まる。タキが何か言っているのを聞きながら、アイラは意識が遠ざかっていくのを感じていた。
目を覚ますと、アイラは家の中で長椅子に寝かされていることに気が付いた。
「お、もう起きたか」
「うん」
「晩飯まで、もうちょっとかかるから、まだ寝ていていいぞ」
ちらりと外を見て、稽古からそれほど時間が経っていないことを知る。気絶していたのは長くても五分かそこらだろう。
夕食はファジェ(蜜入りの雑穀粥)、とタレを絡めた串焼き。
「かなり腕を上げたじゃないか」
ぐつぐつと音を立てているファジェを、冷ましながら口に運んでいたアイラは、その言葉を聞いて食事の手を止めた。
「……そう?」
「ああ。正直驚いたよ」
アイラは軽く鼻を鳴らし、また一匙ファジェをすくって口に運んだ。
蜜の甘みが口に広がる。しかしくどい甘さではない。柔らかな、優しい甘さだ。
夕食を終えた二人は、それぞれに好きなことをして過ごしていた。アイラは木彫り、タキは本を読みながら、時折文字から目を離して養女(むすめ)に視線を向ける。
手元を見つめているアイラは、そんなタキに気付くはずもなく、器用にナイフを使っている。
やがて猫を彫り上げ、木屑をストーブに放り込んだアイラは、そこで初めてタキの視線に気付いたらしい。
「……何?」
「いや。気にするな。明日、発つんだろう? そろそろ休んだ方がいい」
「うん。……お休みなさい」
「あ、ああ、お休み」
ほとんど音も立てずに屋根裏へ上がり、アイラは布団に潜り込んだ。
疲れていたのか、微睡みはすぐに深い眠りへと変わる。
真夜中に、アイラはふと目を覚ました。家の中は静まり返り、何も聞こえてこない。
また眠ろうと目を閉じたアイラの脳裏に、ふとタキのことが浮かんだ。
(思ったより、年取ってたな)
顔には一度も出さなかったが、四年の間に白髪が目立ち、皺も増えたタキに、彼女はひどく驚いたのだ。
アイラはタキの正確な年齢を知らないが、おおよそ五十前後だろうと見積もっている。それくらいの年齢なら、白髪にせよ皺にせよ、珍しいものではない。しかし、他ならぬタキに、老いの印が現れていた――それも、アイラの予想以上に――ことは、彼女の胸を騒がせていた。
人はいつか死ぬ。分かっていることだ。嫌になるほど。
(タキも、いつかは……)
浮かんできた考えに、胸の奥が鋭く痛んだ。
アイラは布団をかぶってきつく目を閉じた。不愉快な考えから逃れ、眠るために。
翌朝、アイラは欠伸を連発しつつ一階に降りた。タキが朝食の用意をしている。
「おはよう。ちゃんと休めたか?」
「ん、おはよう」
朝食のチーズとパンを食べている最中、アイラが口を開いた。
「タキ」
「どうした?」
「私は……ここにいた方が……いい?」
急な質問に、タキは軽く眉根を寄せた。
「ランズ・ハンに行かずに、か?」
アイラがこくりと頷く。
「どうして急にそんなことを言い出した?」
「昨日、帰って来て……思ってたより、タキが、その……年、取ってて。それなら、私も残っていた方が、いいのかなって……」
アイラの言葉を聞き、タキは軽く彼女を小突いた。むっとした顔で見上げるアイラ。
「気持ちは嬉しいよ。でもお前は、自分がするべきことをしろ。……そりゃ、お前がいてくれた方が、一人で暮らすよりいいがね。だがお前はまだ若い。あちこち見て来て、やることをちゃんとやって、それから落ち着いても、悪いことはないさ。なに、俺もまだ老いぼれてないからな。大丈夫だよ」
「……そう」
「ああ。そうだな、たまに手紙の一つも書いてくれりゃいいよ」
「ん、分かった」
朝食の後、荷物を纏めるアイラ。その後ろにタキが立つ。
「……何か用?」
「おう。これを渡そうと思ってな」
渡されたのは黒い手甲。手の甲だけを覆うアイラの物とは違い、指の第二関節まで覆うようになっている上、手の甲側には部分的に硬い革が縫い付けられている。
アイラは目を見張って、タキと手甲を交互に見た。この手甲はタキが使っていたもので、アイラもそのことを覚えていた。
「……いいの?」
「持っていけ持っていけ。俺が持っていても、もう使わんしな」
「ありがとう」
手甲をはめてみる。少し大きめのそれは、しかし思ったよりもアイラの手に馴染んだ。
「じゃ、気を付けろよ」
「うん。……元気で」
柔らかな陽光を帯びながら、小柄な影が離れて行く。それが見えなくなるまでずっと、タキは戸口で見送っていた。
→ 巡り会い