家か、恩か

 アンジェの部屋を出た後、イナは台所に戻り、アイラのために粥をこしらえていた。

 そうしながらも、彼女の口からは時折ため息が漏れていた。

 アンジェはもうこの家に呑まれてしまった。彼女は、何がなんでも目的を果たそうとするだろう。

 アイラはどうだろう。彼女も呑まれてしまっただろうか。

 もし呑まれていないならば、彼女だけでも助けたい。

 贄となる者に対して、イナがそんな考えを起こしたのは初めてのことだった。

 これまでの贄は、イナとは関わりのない者達ばかりだった。イナは彼らの名も知らなかった。しかし今度は違う。二人は娘の恩人であり、聖職者だ。恩人を殺すことは受けた恩を仇で返すことで、聖職者を殺すことは大罪だ。

 だがそう言ったところで、この家の誰が耳を貸すだろう?

 イナは嫁に来た身で、夫や姑には強く意見を言うことが出来なかった。それにヒシヤの家では、大主様のことについては、ナナエが全権を持っていた。大主様のことに関する限り、ナナエの言葉は絶対だった。

 粥ができると、イナは木椀にそれをよそい、盆に乗せてアイラの部屋へと運んで行った。

 アイラの部屋から去った後、イナは台所へ戻り、椀を洗いながら、顔を曇らせてため息をついた。

「父さんが母さんを呼んできてって」

 サヤの声に顔を上げる。イナはそれに応えると、手早く木椀を水切りかごに伏せ、濡れた手を前掛けで拭いながら、台所を出た。

 カズマは居間にいた。イナを見ると彼はちょっと微笑んだ。

「二人の様子を見てきたのかい」

「ええ。ねえ、本当にあの二人を……?」

 この問いに、カズマはわずかの間沈黙していた。

「母さんが……いや、大主様が決めたんだ。仕方がないよ。それともイナ、お前、何か不都合なことでも考えてるのかい?」

 黒い瞳に覗き込まれる。その心まで見通そうとするかのように。

「いいえ。でも私は恐ろしいのよ、だって……」

 その後は言葉にできなかった。イナは小さく震えていた。

「何を怖がっているんだ。心配することなんてないよ」

 そう言って、カズマは、イナを安心させるときにいつもやるように、にっこりと微笑みかけた。

「そうだ、母さんがこの前手入れを頼んだ包丁を、取りに行ってきてくれないか」

「ええ」

 短く答えて、イナが鞄を手に出て行った後で、物置から何か物を取ってこようとしたカズマは客人の部屋の前を横切りかけ、足を止めた。

 アイラの部屋から、話し声が聞こえてくるのを、彼は聞き咎めたのである。

 カズマはじっとその声に耳を傾けていた。それは独言のようだったが、何だかよく分からぬ言葉だった。

 カズマはそっと襖を開けて、中の客に声をかけた。

「お加減はいかがです」

 アイラは耳を塞いでいた手を外し、身体を起こしてカズマに目を向けた。

 アイラが何とも答えなかったので、カズマはもう一度問いを繰り返した。

「別に」

 アイラは静かに、そして無愛想にそれに答えた。その一言には、何の感情もこもってはいなかった。

 アイラの顔の青白いことは病人のようで、表情の動かないことは石のようだった。心痛がその顔の上に現れていた。

 その様子に、カズマは何か言いかけたが、言おうとした言葉は喉に引っかかって出てこなかった。

 アイラは、最低限の注意をカズマに向けていたが、彼女の意識のほとんどは自分に向いていた。彼女は小声で祈りの言葉を呟いていて、初めに言葉を返してからはもう、カズマがそこにいないかのように振舞っていた。

「何か、欲しいものはありますか」

 そう尋ねると、アイラはゆっくりとカズマに顔を向けた。

「いらない」

 淡々と答えるアイラ。

 結局、カズマはそれ以上何も言わないで部屋を出て行った。襖が閉まる音を、アイラはぼんやり聞いた気がしたが、気にも留めないで祈りの言葉を繰り返していた。

 カズマの方は、二人を贄とすることに対して、何かを思う訳ではなかった。大主様がそう望んだのなら、カズマが口を挟む必要は無い。

 彼は客の様子よりもむしろ、イナの様子の方を気にしていた。今年の贄が誰かを知ってからというもの、イナはどこか不安げで、時としては深く考えに沈んでいることがあった。

 カズマはその場を去ると、奥座敷へ向かった。そこではナナエが、蝋燭が灯された白木の祭壇の前で、正座して祈っていた。

 ナナエは祈っているときに話しかけられることを嫌うので、その祈りが終わるまで、カズマはナナエの後ろに座っていた。

 ナナエの祈祷が一段落したところで、カズマは母に呼びかけた。そして彼は、客の様子とイナに対する自分の懸念とを、母に話した。ナナエはじっと聞いていた。話を聞くうちに、老女の半分閉じたような目には、警戒の色が浮き出した。

「気をお付けよ。また儀式ができないなどということになったら、今度こそこの家は終わりだろうからね」

「ええ、分かっています。ちゃんと気を付けておきますよ」

 カズマはそう言って、奥座敷を後にした。

 昼になっても、アイラは食卓に姿を見せなかった。イナは不安げな様子をしていたが、他の者は気にする様子さえ見せなかった。

 イナは食事の後で、アイラに何か食べるかと聞きに行ったが、アイラは静かに首を横に振った。

 その様子に、イナは心を痛め、そして一つの決意を固めた。もしかしたら、自分の身はそのために危ないことになるかもしれなかった。

 それでも、恩を仇で返すような真似をするよりは、よほどこちらの方がいい。

 その夜、イナはこっそりと勝手口の鍵を外しておいた。そこの戸締りをするのはイナの役目だったから、それをするのは難しいことではなかった。

 皆が寝静まって静かになった頃、イナはできる限り足音を忍ばせて、アイラの部屋へと向かった。

 

→ 炎の中で