少女の決意

 がたがたと、重いものが揺れる音。馬のいななき。

 それに目を覚まされたアイラは、一つ欠伸をしてベッドから身体を起こした。

 身体には汗が滲んでいたが、熱があるときの気怠さは消えている。手を額にやってみると、汗ばんではいたが、熱は下がっていた。

 カーテンの隙間から外を覗くと、宿の前を荷馬車が通り過ぎていくのが見えた。アイラの目を覚ましたのは、どうやらあの荷馬車らしい。

 ぼんやり外を眺めていると、人々に混じってクラウスがいることに気が付いた。クラウスもアイラに気付いたらしく、ひらひらと手を振って見せる。

 アイラも軽く片手を挙げ、それに応えて見せた。

 身体を回してベッドから降り、湿らせた布で身体を拭く。動くと少し身体がふらつくが、体力が戻ればこれも治ることは分かっていた。

 服を着替え、椅子に腰掛けて、両手を握っては開くことを繰り返す。

 十回ほどそれを繰り返し、次は肩と腕をゆっくりと動かす。

 そうしていると、ノックの音に続いてドアが開き、アンジェが姿を見せる。

 起き上がり、椅子に腰かけているアイラを見て、アンジェは驚いた顔になる。そのまま、つかつかと近付いて来て、アイラの額に手を置く。

「熱、下がってるわね。でも今日一日は横になってたら? またぶり返したら大変だし」

「……そうするよ」

 ベッドに戻り、横になる。

「何、その顔」

 目を丸くしているアンジェを見て、思わずそう呟く。

「え、だって、アイラこんな素直だった?」

「……人を捻くれ者みたいに言うな。病み上がりなんだ。素直にもなる」

 そう言うと、アイラはアンジェに背を向け、静かな寝息を立て始めた。

 元々やつれ気味で、ここ数日で更にやつれたアイラの顔を、アンジェはじっと眺めていた。

 アイラは愚痴を言わない。そもそも、何か用がない限りは、自分から物を言うことがない。今はアンジェやクラウス、リイシアにネズもいるから口をきくが、一人でいるときは、何も話さないまま一日を過ごすこともあるのではないだろうか。

 そして意外と無茶をする。初めにノドの森で襲われたときは、元から言われていたことだったし、武器に毒が塗られていたことも知らなかったから仕方がないが、その後、レンヒルに来るまでの道程は、いくら何でも無茶だ。

 そう考えて、ふと気が付く。

『クラウスの傷……毒が盛られているような様子はあった?』

 何日前のことだっただろうか。確か、ノルトリアを発った後だ。アイラはそう、問いをかけてきた。

 ということは、アイラは毒の可能性に気付いていたのだろうか。もし気付いていたなら、毒にやられるかもしれないことを知りながら、あのとき、残ったことになる。

 一瞬、寝ているアイラを叩き起こして問い詰めたい衝動にかられたが、どうにかそれを抑える。起きたときに尋ねれば良い話だ。

「あなたのやってることだって、自己犠牲じゃない」

 その呟きは、寝ているアイラには聞こえない。

 アイラがごろりと寝返りをうつ。その顔は少し苦しげで、小さな呻きが口から零れた。

 ぐ、と声を漏らして顔を歪め、詰めていたらしい息を大きく吐き出して、アイラが目を開ける。

「アン、ジェ?」

 しばらく、目の前の人間が誰だか分からないと言いたげに、ぼんやりしていたアイラが、ようやくかすれた声で呟く。

 身体を起こしたアイラに、湿らせた布を渡してやると、彼女は乱暴にそれで顔を拭った。

「悪い夢でも見たの?」

 それに帰ってきたアイラの答えは酷く曖昧で、そうだとも違うとも取れるもの。

「ね、知ってる? 悪い夢って、人に話したら、本当のことにはならないんだって」

「……別に、悪い夢ってわけじゃない。昔の話だよ。昔のことを、夢に見ただけ……」

「昔のこと? それって、もしかしてあのときの……」

「いや、ランズ・ハンでのことではあるけど、あのときのじゃない。もっと……もっと前。四歳頃、だったかな。溺れたんだよ。集落の近くの泉で」

 言葉を押し出すように話すアイラ。話すうちに少しずつ落ち着きを取り戻してきたらしく、言葉が紡がれるのが早くなる。

「誰かに助けてもらったんだ……。でも、誰だったか、思い出せない」

 苛立ち、くしゃくしゃと灰色の髪を掻き回すアイラ。顔をしかめ、おぼろげな記憶を辿る。

 二度も夢に見たせいか、水中での感覚は、かなり容易に思い出せる。が、いくら思い出そうとしても、その前後がどうしても思い出せない。

 横でアンジェが何か言っているが、言葉としては耳に入らない。

 パタン、とドアの閉まる音が聞こえたが、アイラは周囲の何にも注意を向けず、ひたすら記憶の糸を手繰っていた。

 とはいえ、忘れてしまっていることは、どうやっても思い出せない。

 重いため息を吐いて、アイラはベッドに横になった。

(ユートをどう説得すべきだろうか)

 ここしばらく、考えていなかった問題を改めて考える。しかしいくら考えても、これといって良い案は浮かばない。

 あまり頭を使っていると、また熱が出そうで、アイラは結局考え事を打ち切った。

 小さなノックの音。返事を返すと、細くドアが開く。そこから、恐る恐るといった様子で、リイシアが顔を覗かせた。

 手招くと、リイシアはとことことアイラの傍にやってきた。

『大丈夫?』

『ああ。もう熱も下がったよ。……そうだ。ネズにでも言って、何か、食べるものを貰ってきてくれないかな?』

『え……、うん、分かった』

 リイシアの目に、何かを決意した色が浮かぶ。アイラが何か言う前に、リイシアは部屋を出て行った。

 まずリイシアが向かったのは、ネズとクラウスが泊まっている部屋。しかしノックをしても返事はなく、こっそりと覗き込んでみても、部屋には誰もいない。

 少女は階段を下りていく。一段、また一段、段を降りながら、リイシアは、アイラが寝込んでいるとき、ネズと交わした会話を思い出していた。

『いつまで、そうやって黙っているつもりですか?』

 そう聞いたときのネズは、口調は柔らかかったけれど、どこか怖かった。

『でも……共通語、喋っちゃいけないって、掟でしょ? 話せないよ』

 そう答えると、それまで民族語で話していたネズは、その言葉を共通語に切り替えた。

「だからアイラさんや僕を頼るんですか? そんな調子で、もし何かあったらどうするんです? いつまでも、アイラさんや僕が一緒にいられるわけではないんですよ」

 珍しく、ネズが厳しい。

「アイラさんは、元々少数民族の出です。だからこそ、少数民のことについては他の二人より通じている。けれど、クラウスさんやアンジェさんはロウクル(共通語を話す者)です。共通語しか知らない方々です。ロウクルに意を伝えようと思ったら、ロウクルになるしかないんですよ。……確かに長は、ロウクルは人を騙すから、という理由で、共通語を使うことを禁じましたが……リイシア、クラウスさんやアンジェさんが、一度でも、あなたを騙したことがありましたか?」

 その言葉に、リイシアは首を横に振った。あの二人は、優しくしてくれている。騙されたことなんてない。

「それに……ロウクルでなくても、騙す人はいるんです」

 そう言ったネズの顔は、どこか悲しそうだった。

(ロウクルに意を伝えようと思ったら、ロウクルになるしかないんですよ)

(ロウクルは人を騙す者たちだ。だから、共通語を使うことは許さん)

 階段を降りながら、ネズの言葉と父親の言葉を頭の中で繰り返す。

 ネズの言うことも分かるけれど、長である父親の言葉は絶対で、逆らうことは許されない。

 小さい頃から、父親は怖かった。いつも冷たい目をしていて、誰かが何かおかしなことをすれば、厳しく叱りつけた。

 リイシアは、父親に優しい言葉をかけられた記憶などない。

 こうして離れていても、父親は恐ろしい。しかしアイラを、お腹を空かせたまま放っておくわけにはいかない。

 一階に降り、誰か知っている顔はないかと辺りを見回す。すると、食堂の方へ、アンジェが入って行くのが見えた。

 慌ててその後ろを追いかけ、食堂に入ったところでアンジェに追い付いた。

 リイシアが追ってくる足音に気付いたのか、アンジェが振り返り、微笑みかける。

「どうしたの? お腹空いた?」

 それには首を横に振り、リイシアは小さく口を動かした。しかし口から声は出ず、目の前のアンジェは首を傾げる。

(今言わなくてもいいんじゃない? 言わなきゃいけないときが来たらでいいじゃない)

 そんな内心の声を振り払うように、小さく頭を振って、リイシアは、何とか声を出そうと口を開けた。

 今話せないなら、いつになっても話せない。今、簡単な用事ですら伝えられないのなら、何かあったときに、大事なことを伝えることなどできない。

『あの……』

 言いかけて、民族語を発していることに気付き、口を閉じる。

「どうかしたの?」

 心配そうに、アンジェが聞いてくる。リイシアは両手を強く握って、アンジェを見上げた。

「あ、あの……、アイラが、何か食べるもの、持ってきてほしいんだって……言ってた……」

 段々声は小さくなっていったものの、言うべきことは言った。

 伝言を聞いたアンジェは、少しの間、目を丸くして固まっていた。

 どうしよう、とおろおろしていると、それに気付いたのか、アンジェがふっと笑みを見せた。

「食べるものね。ちょうど、持っていこうと思ってたのよ。一緒に行きましょ?」

 良かった、と思いながら、アンジェと共に食堂へ行く。アンジェは、この辺りの地域で、主食としてよく食べられている、カルウ(平たい無発酵の丸パン)とお茶を三つ頼んだ。

 やがて、二人はトレイを手に、二階へと上がって行った。

 そんな二人の様子を、食堂の隅に置かれた観葉植物に隠れるようにして、ネズがじっと見守っていた。満足と不安が同居している、複雑な表情を顔に浮かべて。