希望と思案

 双子の姉妹がアイラについて話していたのと同じ夜、エヴァンズ牧師は、移ったばかりの牧師館の自室で、古い手紙に目を通していた。

 手紙は分厚い、ごわついた紙に書かれたもので、紙の質の悪さのために、書かれた文字も所々滲んでいる。

『エヴァンズ

 こうして手紙を書くのは随分久しぶりだが、元気にしているだろうか? そろそろ神学校も卒業試験の時期だろう。君が無事試験に合格することを祈っている。

 前の手紙にも書いたと思うが、半年ほど前から、私はあちこちの少数民族を回っている。今はハン族の集落にきている。彼らは私が回ったどの民族よりも友好的だ。余所者の私にも、古い友人のように接してくれる。

 ハン族は独特の神を持っている。アルハリク、というのがその神の名だ。この神は常に従者を伴った姿で描かれる。従者を伴う神、というのは、多分珍しいだろう。私が調べた限りでは、ハン族とクル族くらいだ(それに、クル族の場合は常に従者を伴うわけではない)。

 そしてハン族には、神と人との仲立ちをする、“門”――正確には、“アルハリクの門”――と呼ばれる存在がいる。簡単に言えば一種のシャーマンだ。

 “門”、という呼び名の由来を尋ねてみると、その者を使ってアルハリクがこの世に現れるから、という答えが返ってきた。『その者を使って』とはどういうことかと尋ねると、アルハリクが現れるときには、“門”の身体を借りて現れるのだと言う。私が思うに、時折宗教の中で見られる“神おろし”の類だろう。

 このようなシャーマン的存在は、たいていは女の役割である。特に少数民族の間では、その傾向は強いと言えよう。

 しかしハン族においては、“門”は族長の第二子がなると決まってはいるが、性別を決められてはいない。故に過去には、男の“門”も存在したという。

 “門”となるのが族長の第二子と決まっている理由は分からないが、それが習慣なのだそうだ。おそらく、支配者を族長の一族で固めることで、部族の支配をしやすくするためではないかと思うのだが。

 今の“門”はアイラと呼ばれる少女だ。“門の証”があること以外は、普通の子供となんら変わるところは無い。

 “門の証”、というのは刺青だ。“門”の両腕と首元に入れられると聞いている。子供にそのようなことをするのは、私個人としては賛成できないのだが、他の宗教のあり方に、口を挟むものではないだろう。

 もう一つ興味深いことに、この“門”は(彼らの言葉を借りるならば)『神より武器を預かりて』部族の護り手となる。つまり、何かハン族に災いがあるとき、“門”は武器を取り砦となって皆を護るのだそうだ。

 話によると、その武器は三種類。玉破、断刀、円盾。それぞれ矢、刀、盾だということだ。私は玉破しか見たことはない(と、いうよりアイラはまだ玉破しか使えないそうだ)が、元は神の使っていた武器だと伝えられるだけあって、普通の矢とは全く違う。そもそも、矢の形をしていない。

 形を言い表すならば、白く光る球、とでも言えばいいだろうか。驚いたことに、威力も自由に変えられるのだとか。

 ここまでくると、武器と言うよりも、我々の使う術に似たものではないかと思わざるを得ないのだが……。

 まだ書き足りないが、紙がもうない。残念だが、今日はここでペンを置くとしよう。

 君の成功を祈っている。

 ランズ・ハンにて ランベルト』

 この手紙を書いた聖職者、ランベルトは、かつてエヴァンズ牧師の実家のすぐ近くに住んでいた。そのために、彼は幼い頃からランベルトに親しんでいた。エヴァンズが牧師を志したのも彼の影響だ。

 ランベルトもまた、エヴァンズに聖典や聖職者の仕事について色々と教え、また彼が神学校に入学する際には、推薦状を書いてくれた。

 そして、元々自身が信仰しているレヴィ・トーマだけでなく、他の宗教にも興味を持っていたランベルトは、エヴァンズ牧師が神学校を卒業する前から、牧師を辞めて在家の聖職者となり、西部の少数民族の間を回っていた。彼らがどのような信仰を持っているのか知るために。

 そして十四年前、この手紙の後にもう一通、手紙を送ってきてから、ランベルトの消息は途絶えた。エヴァンズ牧師自身もできる限りの手を尽くしたが、結局何の手がかりもなかった。

 今ではもう牧師自身も諦めて、ランベルトは死んだものと思うようにしていた。しかし、最も尊敬する人物の消息が掴めない悔しさは、今でも牧師の胸に深く食い入って残っている。

 昼に会った、アイラと名乗った女を思い出す。彼女ならば、もしかすればランベルトの消息を知っているかもしれない。

 それは儚い望みだった。十四年前ならば、アイラはまだ子供だったはずだ。覚えていないだろう。牧師自身にも、それはよく分かっていた。

(しかし一度、尋ねてみよう。して悪いということはない)

 

 

 

 アイラは夢の中で、再びあの冷たい石造りの廊に佇んでいた。前のときと変わらず、十歳の姿で。

 周りを見回し、自分のいる場所を確かめる。

(また神殿か)

 ハン族の集落の近くにあった神殿の中だと分かれば、この後どうなるかも想像がつく。

 ひたひたと先に進む。

 分厚い衣を着ていても肌寒く、爪先はすっかり感覚がなくなっている。

 青い光に照らされた部屋に着くと、石の舞台の前に額付き、目を閉じて祈る。

 人の気配。衣擦れの音。

――顔を上げよ、門の娘。

 言葉に従い、顔を上げると、黒衣を纏うアルハリクの、厳めしい顔が目に入る。さっと、アイラの背に冷たいものが走る。

――お前は戻らなければならない。

 重い声がアイラの耳を打つ。彼女の身体は釘付けになったように動かない。

 やがて気配と共に、衣擦れの音が遠ざかる。後には、アイラ一人が残された。

 ベッドの中で、アイラはゆっくりと目を開いた。その口から、深い、静かなため息が落ちる。

 ゆっくりと起き上がる。身体がひどく強張っているような気がした。

 家の中は、しんと静まり返っている。外は暗く、まだ夜明けには間があることが見て取れる。

(私は戻らなければならない)

 胸の内で言われた言葉を繰り返す。

 どこに戻らなければならないのか? あの神殿に。

 なぜ戻らなければならないのか? “門”となる儀式を、最後までやり遂げるために。

 アイラの顔が陰る。神殿に戻って儀式をやり遂げ、完全な“門”となることに異存はない。しかし完全な“門”となったところで、護るべきハン族の集落は今やなく、アイラ以外のハン族は誰一人として生きていない。

(私は戻らなければならない。戻って儀式を終わらせなければならない。だが……、それに意味はあるのか? 護るものなど、もう何一つ残っていないのに?)

 その上、西部には、アイラが絶対に顔を合わせたくない男がいる。ランズ・ハンに行くには、その男が住む町を嫌でも通らなければならない。

 アイラの口から、再びため息が漏れる。そのため息は、暗い部屋の中に悲しげに響いた。

 翌日は、朝から雪混じりの風が音を立てて吹いていた。

 レッサの乳を搾りに出ていたミウが、寒さに震えながら戻って来る。

「吹雪いてきたよ」

「いくらでも吹けばいいわ。ちゃんと準備はできてるもの」

 リウがくすくす笑う。それに挑戦するように、一際強い風が吹いた。ドアや窓が激しく揺れる。

 アイラはリウから皿を受け取って、テーブルに並べていた。その顔は思案に沈んでいる。彼女の耳には風の音も、姉妹の話し声も、ほとんど聞こえていなかった。

(私は“門”にならなければならない。それは絶対だ。だがなったところで、それが何になろう?)

 夜中から、アイラはずっとこのことを考えていた。しかし夜が明けても、彼女には答えを見つけられなかった。

「どうかしたの、アイラ?」

 ミウに軽く肩を叩かれ、我に返る。何でもない、と返す声は沈んでいた。

 吹雪は刻一刻と酷さを増していく。雪を乗せて風が吹き付け、小さな家はその度に揺さぶられる。

「アイラ、どうしたの? どこか具合でも悪いの?」

 食事に手を付けないアイラを見て、リウも心配そうに尋ねる。

「いや……別に」

 アイラは無愛想にそう答え、パンを食べることに集中した。