帰宅

 雨が降り続いている。アイラはベッドの中で、うつらうつらしながら雨音を聞いていた。少しは小降りにならないかと、淡い期待を抱きつつ。

 九の刻を回った頃になって、ようやくのろのろと起き上がるアイラ。聞こえる音からすると、雨は止む気配もなく降り続いているらしい。

(やれやれ、天気はどうしようもないな)

 簡単に身なりを整え、荷物をまとめて階下に降りていく。

 朝食は固い黒パンを一切れ。双子と暮らしているときには、三食しっかりと食べていたアイラだったが、仕事もない一人旅に戻った途端、食欲のないときにはろくに食べない、以前の悪癖が復活したらしい。しかしそれでも、何かしら口に入れようとするあたり、少しは改善されたと見ていいのだろうか。

「いってらっしゃいませ」

 代金を払い、主人に見送られて宿を出る。

 雨は降っているが、雨足は弱い。またマントに身を包んで、雨の中を歩いていく。

 幼い頃は、雨の日は天幕から出られず、退屈していたものだ。どうやって過ごしていたのか、もうよく覚えていないが。

(本か何か、読んでいたんだっけ)

 はてと首を傾げる。何せ十数年も前のことだ。鮮明に覚えている方が珍しいだろう。

 ふと視界の隅に入った鮮やかな色に、アイラは足を止め、道端に目を向けた。そこには白い花が一株。

 雨に濡れる花を見るアイラの脳裏に、覚えているとも思わなかった幼い頃の記憶が蘇る。

 アイラは六つか七つくらいだったろう。そのときも雨だった。その日の勉強は終えてしまい、外に出るわけにもいかず、幼いアイラは“アルハリクの門”にあてがわれた天幕の中で、一人暇を持て余していた。

 天幕の中にいるのはアイラと、世話係の神官が一人だけ。頼めば飯事くらいは付き合ってくれようが、二人では何も楽しくない。

 兄、オレルがやって来たのは、そんなときだった。

『これ、やるよ』

 開口一番、オレルが差し出したのは小さな花輪。ちょうど、今アイラが見つけた花と同じ、白い花の。

『ありがとう!』

 決して綺麗な花輪ではない。あちこち花が飛び出していて、形も少し歪んでいる。しかしアイラはそんなことは気にかけず、兄の手から花輪を受け取って頭に乗せた。

『似合う?』

『うん、似合うよ』

 オレルがにっと笑う。アイラもまた、声を上げて笑った。

 アイラとオレルとは年子だった。オレルはハン族の長である父の後継ぎ、アイラは神と人とを繋ぐ、“アルハリクの門”と、それぞれに役目を負っていた。

 兄妹仲は良かっただろう。特に喧嘩をした記憶もない。歳が一つしか違わなかったせいもあり、兄妹というよりも、双子のように育った。実際、背格好も似ていたから、双子だと思われたこともあった。

 家族の中でただ一人、暮らす天幕が違うアイラを、オレルは毎日訪ねてきた。両親も毎日顔を見せたが、オレルの方が、共にする時間は長かったと思う。

 幼いアイラにとって、オレルは憧れだった。兄のようになりたい、と思っていた。

『僕は大きくなったら、父さんみたいにハン族の長になるんだ。そうなったら、アイラは、僕を手伝ってくれる?』

『うん、いいよ! 何でも手伝う!』

 そんな会話をしたのは、いつだっただろうか。

 その言葉に嘘はなかった。何でも手伝うつもりでいた。ほんの少しでも、兄の役に立てるのなら、それだけで嬉しかったから。

『約束だよ?』

『うん!』

 その約束も、もう果たすことはできない。そのことを思うと、胸の奥がちくりと痛む。

 ぽとりと顔に落ちた雫の冷たさに、ようやく我に返る。どのくらい道端に立っていたのだろう。

(駄目だな。昔のことになると、ついこうなる)

 小走りになりつつ道を急ぐ。雨は強まりも弱まりもせず降り続ける。

 急いだのが良かったのか、昼にはテラに着いた。クレインとウーロとのちょうど中間にあたる小さな町だ。

 雨の雫を垂らしながら入って来たアイラを見て、宿の主人らしい小太りの女は目を丸くした。

「いらっしゃいませ。お寒かったでしょう。マントはお預かりしましょうか、乾かしておきますよ」

「……頼みます。夕食と、一泊も」

「はい、かしこまりました」

 濡れたマントを預け、あてがわれた部屋に向かう。荷物を隅に置き、近くの椅子に腰かける。

 しかし、どうも落ち着かない。立ち上がり、部屋の中を意味もなく歩き回り、また座る。落ち着かない原因を、アイラは何となく察していた。タキに会うせいだ。

(どんな顔で会えばいいのやら)

 普通にしていればいいのだろうとは思うが、その『普通』がよく分からない。

 ふ、と息を吐き、椅子に腰かける。

(色々考えても仕方ないか。なるようになるさ)

 そう結論付け、ベッドに横になって目を閉じる。

 その夜のアイラの眠りは、浅い、途切れ途切れのものだった。言い表しようもないほど妙な夢を見て目を覚ましては、まだ外が暗いことを知って再び眠る。そしてまた、妙な夢を見ては目を覚ます。

 それを一晩中繰り返し、ようやく夜が明けた頃には、アイラは既に起き上がって、旅支度を整え終えていた。

 翌朝早く宿を発ったアイラは、ウーロに続く街道を歩いていく。その足取りが普段よりゆっくりとしたものであることに、彼女自身は気付いていない。

 

 

 

 同じ日の昼前、ウーロの市で買い物をした帰り道、ゆるゆると足を運んでいたタキは、家の戸口が見えるところまで来て、ふと足を止めた。

 彼の目線の先、家の戸口には人影が一つ。旅装束の、子供の様に小柄な人影。首にぐるぐると巻かれた長いスカーフと灰色の髪で、タキには人影が誰なのか難なく見当が付いた。

(変わらんな)

 微笑みを漏らすタキ。人影はタキに見られていることに気付いていないのか、戸口の前でうろうろしている。それとも彼が留守であることに気付いて、どうすればいいか考えているのだろうか。

 悪戯心から、わざと気配を殺し、静かに近付く。人影は相変わらず気付いた様子はない。

「もう来たのか。思ったより早かったな、アイラ」

 声をかけると、人影――アイラは小さく息を内へ吸い込み、勢いよく後ろを振り返った。タキの姿を認め、灰色の目にやや憤慨したような色を浮かべる。

「悪い悪い、つい、な。ま、とにかく入んな。疲れたろ?」

 くっくっと喉の奥で笑いながら、タキは中に入るようアイラを促した。

「……荷物は、上に?」

「おう、置いてこい」

 するすると梯子を登っていくアイラを横目に見ながら、タキは昼食の支度にとりかかった。