廃屋での攻防(前編)

 アイラがナイフを研ぎ終え、部屋で軽く身体をほぐしていると、アンジェが戻って来た。アイラはちらりとアンジェを見たものの、何も言わずに身体を動かしている。

 その後も二人の間に会話はなく、時間だけが過ぎていく。

 パンとチーズだけの夕食を終えると、アイラはシャワーを浴び、ベッドではなく、部屋の片隅で足を組んで座り込んだ。

 既に窓ガラスのことはルーナにも伝え、ベッドの布団やシーツも取り換えられている。しかしアイラは柔らかなベッドで寝るよりも、この先起こることに向けて、精神を統一させる方を選んだ。

 アンジェも簡単に夕食を済ませた後、沐浴を済ませ、今は髪を乾かしつつ、アイラの様子を見ていた。

 目を閉じ、首を垂れているアイラは、その視線に気付いた様子はない。瞑想しているアイラは、余程のことがない限り、反応を示すことなどないことを知っているアンジェは、溜息をついて顔を背けた。

 二十三の刻。時計の針が時を示すのと同時に目を開いたアイラは、ゆっくりとした動作で立ち上がった。

 部屋は暗く、アンジェもベッドに入って眠っている。

 猫のように静かに、荷物からペンと紙を取り出し、乱暴な走り書きで何か書き付ける。

 書き終えてしまうとそれらを片付け、やはり音を立てずに荷物を探る。

 やがて、目的のものを見つけたアイラは、しっかりと口元を隠すようにスカーフを巻き、通り抜けられるだけの隙間を開けて、アイラは部屋を出た。

 素早く一階に降り、宿の裏口から外に出る。

 外では霧のような雨が降っており、雨具を持っていないアイラは、すぐにしっとりと濡れ始めた。

 しかしアイラはそんなことには構わず、真っ直ぐに道を歩いていく。

 そんなアイラの後を、こっそりとつけていく人影があった。アイラもそれに気付いているらしく、時折足を止めては後ろを振り返っている。

 何度目かに振り返ったとき、物陰に隠れる背の高い人影が、ちらりと見えた。

 何かを察したのか、アイラの眉間に皺が寄る。

 ふん、と鼻を鳴らし、アイラは振り返ることなく道を歩いていく。

 道々懐から取り出したナイフに、部屋で書いていた紙を結び付けたアイラは、物陰に隠れつつ、ある建物の扉に向けて、ナイフを投げた。

 カッ、と硬い音を立ててナイフは木の扉に刺さる。続けざまに数個、石を扉にぶつけたアイラは、暗闇に紛れるように走り去った。

 指定された廃屋は、以前、アイラがやくざ者達と対峙した場所だった。

 前にも来たことのある場所だ。中がどうなっているのか、どんな部屋があるのか、ちゃんと分かっている。

 軋むドアの前に立ち、一呼吸。

 不気味なほど、気配がない。いないのか、それとも気配を殺しているのか。

 二呼吸。

 ドアを開け、中に入る。

 瞬間、左側から殺気が膨れ上がった。

 すうっとアイラの目が細められる。

 左から勢いよく突き出された短剣を、アイラは少し膝を曲げるだけであっさりと避けてみせた。

 短剣を突き出した姿勢のまま、不意を打とうとしていた男の身体が、空中に縫い止められたようになった。

 アイラは再び、不機嫌そうに鼻を鳴らし、男の鳩尾に拳を打ちこんだ。

 崩れる男を見もせずに、アイラは三、四、五、と呼吸を数えながら二階へと上がっていく。

“狩り手”がどこで罠を張っているのか、それもおおよそ見当がついている。

 わざわざ以前と同じ場所を指定したのだから、ここで場所がずれるとは考えにくい。

 アイラは迷うことなく、突き当りの部屋に向かう。

「早かったな」

 奇妙に掠れた男の声が耳に届く。

 アイラの正面には、背の高い人影が立っていた。身体つきを隠すように薄い外套をまとい、顔も女のように、紗のヴェールで覆っている。

 その隣には、少年を腕に抱えたルシア。少年の顔には、何となく覚えがあるような気がした。

 少年は怯えの色を顔に浮かべている。

 部屋に踏み込むと、背後でドアが閉まった。

 既にアイラは取り囲まれていた。謎の男とルシアを含め、その数は七人。

 その人数すら、以前と同じだ。

 明らかに不利な状況。それでもアイラの表情は平静そのもの。

「そこで止まれ」

 男の声に従い、アイラは歩みを止めた。

「両手を上にあげて、大人しくしろ」

「……嫌だと言ったら?」

「そうだな。そこの子供には、酷なものを見せるだろうな。……あるいは、心の臓が、止まるやもしれんな?」

 楽しみすら伺える男の声。

 アイラの瞳が、石のような冷たさを宿す。

 するりとスカーフを解くと、“門の証”が覗いた。

 その行動は、アイラの答えを、何よりも雄弁に語っていた。

「やれ」

 掠れた声が、号令をかける。

 アイラの周囲を囲んでいたのは、男とルシア、そして明らかにならず者だと分かる男達。金さえ出せば、平気で人を殺すような連中だ。

 そんな五人の男達が、子供としか見えないアイラを侮りきって襲い掛かる。その油断が、己の敗因になるということに気付かずに。

 相手を侮り、数に頼る相手は、アイラにとって最も戦いやすい相手だ。その油断を利用すればいいのだから。

 養父譲りの、正確な攻撃を男達の急所に打ち込む。決して重いとは言えない攻撃だが、その速さと鋭さが、一撃一撃を強いものとする。何より、攻撃を加えるのが人体の急所であるということが、アイラの攻撃を更に強いものにしていた。

 大柄で、荒事に慣れているはずのならず者達が、全員意識を失くして倒れるまでには、十分もかからなかっただろう。

 目の前の、口から泡を吹いて倒れている男を飛び越える。石のような目が見据えるのは、奥にいる三人。

「……で、誰に、何を見せるって?」

 息一つ乱さず、腕を組んで口を開く。

「両手を上げて、足を止めなさい。でないと、この子がどうなっても知らないわよ」

 ナイフを少年の首筋に近付けたルシアの脅しに、アイラは今度もあっさりと足を止めた。そして腕を素早く振り上げる。

 アイラの手から、何か光るものが離れた。

 それはヒュウ、と空を切って飛び、深々とルシアの右肩に突き立った。

 突如受けた痛みに、思わずルシアが声を上げる。

 アイラが投げたのは、飛刀と呼ばれる投擲武器だった。通常のものよりも小振りのそれは、殺傷力こそ劣るが、普通の飛刀よりも速く飛び、また取り回しもしやすいものだった。

 飛刀を投げるとほぼ同時に床を蹴り、ルシアに肉薄したアイラは、ルシアではなく、彼女が抱えていた少年を当て落とした。

 突然ぐたりとした少年を、肩の痛みで拘束する力の緩んだルシアは支えきれない。

 アイラが狙ったのは、その一瞬だった。

 渾身の力で少年を奪い取る。

 妙なことに、ルシアの隣に立っていた男は、アイラの動きを見ているばかりで、手を出そうとはしなかった。

 そもそも、彼は少年を遠ざけようとしているようだった。

 ルシアは左腕で少年を抱え、右腕でナイフを持っていた。ならば左側に立っていた方が、アイラを脅すにせよ牽制するにせよ便利だろうに、男はわざわざ右側に立っていた。

 そして、この男は、とにかく正体をさらそうとはしなかった。顔を隠し、身体つきを隠して、自分が誰かということを、気付かせぬようにしていた。

 その様子から、アイラはこの男の正体を、薄々察したが、あえて口に出そうとはしなかった。

 手出しをせぬなら好都合と、アイラは少年を抱えて後ろへ下がる。息を詰まらせてしまわぬように気を付けて寝かせ、ルシアと対峙する。

 倒れている男らは、当分意識を取り戻すことはないだろう。

「この……っ!」

 ナイフを片手に、ルシアが距離を詰めて来る。

「円盾」

 右腕を構えてそう呟けば、神の盾が現れる。それを使ってルシアの攻撃をそらし、左手で攻撃する。

 ルシアの戦い方は、アイラと同じ類の、速さを生かす戦い方だ。

 しかし、アイラとルシアには、大きな差があった。それが、経験の差だ。

 ルシアのナイフがわずかに肌を裂いたとき、アイラは動きを止めようとしなかった。小さいとはいえ、傷を受けてなお、アイラは踏み込むことをやめようとしなかった。

 アイラに殴打されたとき、ルシアは動きを止め、庇おうとする姿勢を見せた。その動きこそが、アイラが付け入る隙だというのに。

 故に、この女二人の攻防も、そう長くは続かなかった。