廃屋での攻防(後編)

 ルシアの手から、ナイフが叩き落とされる。直後、女はよろめき、尻餅をつく。

 ルシアの鼻は曲がり、流れ出した鼻血が服を赤く染めていた。

「女を、殴る、なんて、最低ね!」

「……子供を人質にとるような畜生(サツグ)に言われたくはない」

 唸りながら、ルシアが二本目のナイフを取り出し、さっと横に振る。

 ひらりとかわしたアイラは距離を詰め、ルシアの右目に指を突き入れた。

 目から血を流し、ルシアが悲鳴を上げる。

 アイラは冷たい表情のまま、うずくまるルシアのこめかみを蹴りとばして黙らせた。

「見事だ。だが、前と同じだと思ってもらっては困る。……入り給え」

 隣の部屋に続いているドアを開けて、男が一人入って来た。

「その女はどこで拾ってきた?」

「さっき、外にいやがったんで」

 入って来た男はアンジェの首に腕を回し、半ば引きずるように連れてきていた。

「そうか。まあ良い。好きにしろ」

 アンジェを見ても、アイラの表情は変わらなかった。

「ガキ、こんなところでお前に会うとはなあ!」

「……ああ、貴様か、デカブツ」

 一目見て、アイラはこの男――以前、キャラバンサライで叩きのめしたザール――を『敵』だと認識した。

「動くなよ。またあのおかしなものを飛ばそうとしたら、この女を殺す」

 左手を伸ばしたアイラは、その警告に動きを止めた。

「お前のせいで半年は剣が握れない身体にされて、仕事も回ってこなくなった。どこへ行っても門前払いだ。お前のせいでな!」

「知るか」

 ザールの恨み言を、アイラはただ一言で片付けた。

 キャラバンサライでアイラに負けた後、肩の骨が砕けたザールは、以前ほど剣を使えなくなった。

 また、口入れ屋の選んだ護衛に難癖をつけた挙句、襲い掛かったということが知れ渡り、彼に仕事を回す口入れ屋はなくなった。

 その結果、彼はならず者にまで身を落としていた。

 そんな彼を見るアイラの目に、感情はない。

(自業自得だ)

 アイラの身体から、殺気が立ち上る。それに気付いたザールは、腰のケースからナイフを取り出すと、アンジェの首筋すれすれまで近付けた。

「おかしな真似をするな」

 ぎり、とアイラは歯を鳴らす。アンジェがついて来ているのは分かっていた。

 彼女が来れば、人質にされると思ったから、宿にいろと言ったのだ。

 今の状況は、アイラの想定の中でも、最悪の部類に入る。

 人質にされているアンジェも、顔色を失くしていた。

 アイラはきっとザールを睨み付ける。手刀の形にした左手を、まっすぐに伸ばしたまま。

 抜き身を思わせる、冷たく鋭い瞳。アンジェは、その瞳を覚えていた。

 それは、アイラが戦うときに見せる瞳。相手を『敵』だと認識し、一切の容赦をしないと決めたときに見せる瞳。

『断刀』

 アイラ本人以外には耳慣れない響きで、一言、アイラが呟いた。首元に入れられた紋様が、淡く光を放つ。

 そして、アイラの両腕から、すっと神の太刀が伸びた。

「おい! 妙な真似してんじゃねえ! こいつを殺すぞ!」

 首すれすれをかすめた光が何なのか、理解できていないザールが怒鳴る。

 そのまま、彼はアンジェの首に、左手に持ったナイフを押しつける。

 鮮やかな赤が一筋、アンジェの首筋から伸びる。

 それを見て、アイラの表情が一瞬だけ凍り付いた。

「女を離せ、デカブツ。でないと、一生剣を握れなくしてやる」

「黙れ! 従うのはお前だ!」

 怒鳴るザールに向けるアイラの目は、人ではなくものを見るような目。

「やめて!」

 アイラが何をしようとしているのか、先刻の言葉の意味が不意に分かったアンジェが叫ぶと同時に、アイラは左腕を下に降ろした。腕が疲れたから、とでも言わんばかりの、自然な動作だった。

 その直後、ザールの左腕が床に落ちた。吹き出す血が、床や壁を赤く濡らす。

 ようやく事態を認識したザールが絶叫する。アイラはそれに一切注意を向けることなく、一人無傷で佇む男に視線を向けた。

 男はヴェールの下でにやりと笑い、背後の窓を音もなく開け放った。

 微塵も躊躇うことなく、男は窓から飛び降りる。

 舌打ちを漏らしたものの、アイラは男を追おうとはしなかった。

 部屋の中へと向き直り、無表情のまま、アンジェにハンカチを手渡す。

 一言も話さないまま、アンジェの傍を通り過ぎたアイラは、まだ目を覚まさない少年の横にしゃがみこんだ。

 少年は顔色こそ悪かったが、脈はしっかりと打っている。

 そのことにほっとしていると、階下から、複数人の足音が聞こえてきた。

 やがて、警備兵の一団が姿を見せる。

 アイラとアンジェを見て、一団を率いていた兵士長・ヘルムが事情の説明を求めて来る。

「連れが襲われたので、ここまで追って来た。どうやらこいつらが、子供を攫った奴ららしい」

 今一つ要領を得ない(上に、事実とも異なる)アイラの説明に、ヘルムは首を傾げながらも、部下に命じて全員を拘束させ、連行していく。

 ダニエルが、小さく身動きして目を開ける。飛び散る血を見せないように身体で隠しつつ、アンジェがダニエルに声をかけた。

「気が付いた? 気分はどう?」

 少年はまだ状況が飲み込めていないようで、ぼんやりとアンジェの顔を見返した。

 その後、三人は兵士達と共に、詰所に戻って来ていた。

「なるほど。知り合いに会った帰りに突然襲われ、逃げた者達を追って行くと、あの廃屋に着いた、という訳ですか」

「ああ。そこでも襲われたので、とりあえずやり返した」

「ご協力、感謝します」

 そこへ、兵士から知らせを受けたらしいイルーグが、息せき切って駆け込んできた。

 彼の顔色は蒼白になり、今にも倒れそうな様子だった。

「ダニエルは!?」

「救護室で休んでいただいています」

 その場にへたり込みそうになる彼を、近くにいた兵士が慌てて支えた。気付け用の酒を一口飲まされ、イルーグはどうにか落ち着きを取り戻す。

「息子を助けてくださって、ありがとうございます」

「感謝なら、こちらの方にどうぞ」

 ヘルムがアイラを示す。イルーグはアイラの手を握り、何度も感謝の言葉を繰り返した。

「……別に、やるべきことをやっただけだ。感謝されることじゃない」

 アイラの言葉は素っ気ない。

 何を考えているのか、その表情からは読み取れない。

 その後、アイラとアンジェ、イルーグとダニエルは、それぞれ警備兵に送られて、宿屋と屋敷に戻った。

 宿に戻っても、アイラは一言も発さない。

「怒ってる?」

「……別に」

 ようやくぼそりと返し、アイラは服を着替えると、ベッドに入って目を閉じた。背後でアンジェもベッドに入る音がする。

 アンジェに対して、怒ってはいなかった。というよりも、何とも思ってはいなかった。

 アンジェの行動の理由は分かる。心配ゆえだと。

 心配する理由も、まあ分かる。自分に責任があると。

「……アンジェ」

 名を呼ぶと、後ろで、小さくアンジェが身じろぐ気配がした。

「……私は、多分これからも、何かあったときに、自分で解決しようとするだろう。でも、自分でどうにかできないと思ったら、誰かに頼る。……私は、自己犠牲は嫌いだし、する気もない。生きていたいから。だから……この先何かあったら、そのときは自分が最善だと思う行動をとれ。その結果どうなっても、私はあんたを責めはしない」

 アンジェの答えを聞くより先に、アイラは目を閉じていた。