思いやるゆえに
衝撃から初めに立ち直ったのは、アイラだった。
金属板を元の通りに襟首に縫い込み、丁寧に畳んでシュリに渡す。
「あ、ありがとう」
呆然としていたシュリが、はっとして受け取る。
「このこと、早く知らせた方がいいんじゃないかしら」
「……いや、もう少し、黙っておこう」
「どうして?」
「おそらく、ルドルフ・フォスベルイはまだヨークにいる。姪の失踪の手引きをして、自分に危険があると考えれば、平然と情報屋に手を下すような奴だ。あいつが生きてヨークにいる今、シュリを連れて行くのは得策じゃない。シュリを会わせるなら、ルドルフを何とかしないと」
アイラの言葉に、アンジェが納得したように頷く。一方、おそらく一番の当事者であろうシュリは、未だに状況が飲み込めていない様子で、アイラとアンジェ、そして手元の外套を見比べている。
「ええと……私は、どうしたらいいの?」
「今までどおりでいいよ。ただ、身の回りには十分気を付けて。マティアスにも、知らせておいた方がいいと思う」
やがて呼ばれたマティも、事の経緯を聞いて目を丸くした。
「へーえ、じゃ、シュリはお嬢様ってわけか。シュリお嬢様」
「やめてよ、マティ!」
顔を赤くして声をあげるシュリ。苦笑いしつつマティが謝る。
「とにかく、そう言う訳で、しばらくは身の回りに気を付けていて。何があるか分からないから」
「ああ、分かった。気を付けるよ」
アイラの言葉にもすぐに応えるあたり、マティはそれほど動揺してはいないらしい。むしろ少し安堵したようにも見える。
二人が部屋に戻ろうとしたときだった。ノックの音と共に、年輩の女中が強張った顔を覗かせた。
「何か?」
「女将さんが、皆さんに下まで来ていただきたい、と」
急な呼び出しを訝しく思いつつ、四人は一階へと降りる。
一階の受付の前では、イルーグとヨークの警備兵が待っていた。
イルーグの顔は青ざめ、唇には血が滲んでいる。
「こちらの方が、ご用事があるとのことで、詰所までご同行願えますか?」
「分かった」
宿の近くにある詰所に着くが早いか、イルーグは口を開いた。
「ダニエルが、さらわれた」
アンジェが顔色を変える。
「そんな……あの子は心臓が弱いんでしょう!? 何かあったら……!」
「私が心配しているのもそこだ。薬もないだろうし……もし発作でも起こしたら、もたないかもしれない」
「その前に、さらわれたという根拠は?」
アイラが冷静に話に割って入る。
「使用人が部屋の前を通りかかったら、硝子が割れる音がして、驚いて中に入ったら、怪しい男がダニエルを抱えて窓から出て行ったらしい。その使用人もその場で気絶させられたようだから、詳しいことは分からないと言っていた」
「その使用人、名は? それと、いつ、どこから雇った?」
「名前はオスカー、三年前に、ルドルフ君の紹介で雇った男だ」
「……そうか。分かった。何か分かったら、知らせる」
そう伝え、アイラはさっさと詰所を後にした。
宿に戻り、部屋のドアを開けたアイラの足が、入口で止まる。その頭越しに部屋の中を見たアンジェも、小さく息を呑んだ。
窓ガラスが一枚派手に割られ、部屋の中にはガラス片が飛び散っている。
アイラの寝ていたベッドには、細く畳んだ紙が結ばれた矢が突き立っていた。
ガラス片を踏まないように気を付けながら、アイラが無造作に矢を引き抜いた。
紙を解き、目を通したアイラの眉間に皺が寄った。
「どうしたの?」
無言でアイラが紙をかざす。
『アイラ 今夜 零の刻 廃屋まで 来い』
誰の手によるものか、乱暴な文字で書かれた一文を見て、アンジェの顔が強張った。
「行くつもり?」
アイラが頷いて、肯定の意を示す。
「なら、私も行くわ」
「……いや。アンジェは、来ない方がいい。危険だから」
「でもそれは、あなたにだって同じことでしょう?」
「……私一人なら、何とでもなる。だから、一人で行く」
「でも、目の届くところにいろって言ったのは、あなたでしょう?」
「……確かに言ったけど、状況が違う。アンジェには危険だ。だから、私だけで行く」
アンジェの顔が一瞬歪んだ。転瞬、パン、と乾いた音が鳴る。
頬をまともに打たれたアイラは、冷たい目でアンジェを見返した。
「いい加減にしてよ! いつもいつも、そうやって、自分一人で抱え込んで! 自己犠牲が嫌いだって言うけど、あなたのやってること、結局は自己犠牲じゃない!」
「だからと言って、あんたが来ても、足手まとい以外の何物でもない」
アイラの声もまた、その視線と同じく冷たい。
「心配だから言うんじゃないの! なのにそう言って……!」
「……あんたが来たところで、人質にされるのがおちだ。おそらく向こうにはあの家の子供がいる。そんな状況で、人質を増やすような真似は、馬鹿のやることだ」
「だからって、一人で罠にはまりに行くの? こっちがどれだけ心配するかってことくらい、考えてよ!」
「心配しろと頼んだ覚えはないし、何度でも言うけど、アンジェが来たって邪魔でしかない!」
ついにアイラも声を荒らげる。
きっと唇を引き結び、アンジェはくるりと踵を返して部屋を出て行った。荒々しく、ドアを閉めて。
一人残ったアイラは、溜息を吐いてベッドに座りかけ、ベッドの上がガラス片だらけなのを思い出して、寸前で踏み止まった。
分かっている。アンジェに心配されているのも、一人で行くのは、罠にはまりに行くようなものだということも。一人なら取れる手段が増えるとはいえ、それは、絶対に生きて戻れるという保証にはならないということも。
それでも、危険だと分かっているところに、アンジェを連れて行くわけにはいかない。連れてなど行けない。
だからこそ、アイラは一人で行くと言ったのだ。アンジェにアイラやクラウス、あるいはタキ並みの武術の心得があるならばともかく、付け焼刃程度の技術しかないアンジェでは、こういう場合、足手まといにしかならない。
(だから、これでいいんだ)
零の刻までには、まだ時間がある。
ガラス片で怪我をしないように土足のまま、アイラは割れた窓を見た。窓の向こうには、向かいの建物の窓が見える。
今は鎧戸が固く閉じられ、様子を伺うことはできない。
カーテンを閉め、部屋の灯りをつけると、アイラは女中に頼んで箒と塵取りを持ってきてもらった。
ガラス片をできる限り掃き集める。やがて一通り、目に見える破片は取り除けた。
箒を返し、ルーナに誰かが悪戯で窓を割ったらしいと伝える。ルーナはそれを聞いて、顔を暗くして溜息を吐いた。
部屋に戻ると、アイラは荷物から砥石を取り出して、丁寧にナイフを研ぎ始めた。
部屋を飛び出したアンジェは、宿の食堂の片隅に座っていた。
心配しても、一向に気にする様子のないアイラには腹が立つ。それでも、自分が足手まといでしかないということは分かっていた。
(あそこまで言わなくてもいいじゃない)
そう思いつつ、ぼんやりと窓の外を眺める。
罠と分かりきっているところに、一人でいくなど無茶だ。以前、リイシアを連れていたときにも思ったことだが、アイラは自分を大事にしなさすぎる。
おそらくアイラは気付いていないのだろう。自分は一人ではないということに。心配する人間がいるということに。
アンジェの茶色の瞳に、決意の色が浮かんだ。