新たな道

 我に返ったときには、どこかの部屋の中にいた。

 重い身体を起こし、周りを見回す。見覚えのある調度と窓からの景色に、ここが泊まっていた宿の一室だとネズは結論付けた。

 頭が回らないまま、ぼんやりと空中に視線をさまよわせる。

 ノックの音に、反射的に返事をする。

「お、起きてたのか」

 顔を覗かせたクラウスが、安心したような笑みを浮かべる。

「……殺さなかったんですね」

 ぽつりとこぼした呟きが聞こえたのか、クラウスが肩を竦めた。

「不満か?」

 そう尋ねるクラウスの目は、ぞっとするほど冷たかった。

 ネズの方は、少し顔を俯けたまま、しばらく黙っていた。

「どうしてですか?」

「どーせ生きてりゃいつかは死ぬんだよ。わざわざ自分で縮めることもねーだろ? 四、五十年先を考えてみろよ。そんとき自分が生きてると思うか?」

 六十代、七十代の自分を考えてみる。確かに、その頃には迎えが来ていてもおかしくはない。

「オレなんか来週死んでたっておかしくねーもん。こんな仕事だしさ。だからさ、生きられる内は生きてみろよ。そりゃ、ヤツトの側に付いたのは、間違ってただろうけど、ネズは嬢さんに対しては何もしてねーだろ? むしろ助けようとしてたじゃねーか。何で死ぬ必要があるんだよ。自分のやったことを償いたいってんなら、生きることで償えよ。楽な方を選んで、逃げんなよ。……最もこんなこと、オレが言えた義理じゃねーけどさ」

 肩を竦めるクラウス。

 ネズは黙ったまま、クラウスの言葉を胸の内で繰り返していた。

「生きろと言われても、僕は……」

「行く場所がねえって話なら、前にも言ったけど、オレの家に来いよ。誰も迷惑だなんて思わねーよ」

 俯いたネズの目から、涙がこぼれる。

 やがて、目元を拭ったネズは、一つ気にかかっていたことを聞いてみた。

「アイラさんは、大丈夫ですか?」

「ああ、さっき帰って来て、今はアンジェの姉さんが治療と説教中」

 大したことはないらしいけどな、と付け加える。

「説教、ですか」

「『何で刃なんか掴むの!』って言われてたな。まあ、アレにはオレもびっくりしたけどさ。まさか刃掴んで止めるとは思わなかったし」

 噂をすれば影とでもいうのか、そのときノックの音と共に、アイラがひょっこり顔を出した。

「お、やっと解放されたのか」

「ん。治療の間怒られたけど」

「そりゃそうだろ」

 そうなのかとアイラは頷いていた。相変わらず、彼女はどこかずれている。

「怪我は、大丈夫ですか」

「ん? ああ、うん。深くはないし。すぐ治るってさ」

「何だ。『治癒』は頼まなかったのか?」

「護衛の仕事でもしてるんなら頼むけど、今は別にそんな状況でもないし。この程度の切り傷、『治癒』を使う必要もない。……それと、一つ、良い報せだ。あの後、ユートと話し合って来たんだが、掟については考え直すとさ」

「そうですか……」

 ネズの表情が緩む。

 アイラが何か言いかけたとき、三度ノックの音がした。それに返事をすると、アンジェがほっとした顔を覗かせる。

「どうしてるかと思って。入っても大丈夫?」

「ええ。ご心配おかけしました」

 アンジェがくすりと笑う。

「全くだわ。誰も何にも言ってくれないんだもの」

 笑いに紛らせてはいたが、アンジェは今朝、三人の姿が見えないと気付いたときには相当心配したのだ。

「そこに関しては悪かったよ。書置きくらいは残して置きゃ良かったな」

「うん。ああ、それとネズ。ユートは、あんたがサウル族に戻ることは、認めることはできないが、『どこか別の場所で生きるなら、それを咎めることはない』と言っていた」

「どこか、別の場所で……?」

 ネズは口の中で呟いた。

「ん。じゃ、私はこれで」

 部屋を出ようとしたアイラの腕をアンジェが掴む。振り返って彼女の顔を見たアイラが、小さく肩を竦めた。

「……後で説明する」

 部屋を出たアイラの後を追って、アンジェも部屋を出て行く。

 足音が聞こえなくなってから、ネズは口を開いた。

「あの、先ほどのお話、受けてもいいですか?」

 一瞬、ぽかんとしたクラウスだったが、すぐにその顔には笑みが浮かぶ。

「もちろん」

 

 

 

 ネズの部屋を後にしたアイラとアンジェは、食堂で向かい合ってやや遅い朝食を取っていた。とはいえ朝食を取っているのはアンジェの方で、野営地で食べていたアイラは水を飲んでいるだけだ。

 朝食を終えると、二人は場所をアイラの部屋に移した。

「で、結局何があったの?」

 アンジェの問いに、アイラは淡々とした口調で、ネズを見かけたことからユートとの会談までを説明した。

「そんなことになってたの。でも、死のうとすることないのに」

 ようやく事情を理解したアンジェが、そう感想を漏らす。

「それが一番良い責任の取り方だと思ったんだろう。今は、違うみたいだけど」

「分かるの?」

「……何となく」

 疑わしげな視線を向けられたが、アイラはもう、ネズのことを心配してはいなかった。

「ならいいんだけど。でもね、今度からは、私にも伝えてよ」

 アンジェの目は真剣だ。

「……ん。ごめん」

「心配したんだからね。朝早くから出て行ったみたいだったから何かと思ったら、クラウスさんはネズさん担いで戻って来くるし、あなたはあなたで片手血塗れにして戻って来るし……! 止めるなら、刃を掴むことないでしょうが」

「今思えば、な。でも正直、考えている暇はなかったよ」

 はあ、とアンジェが溜息を吐く。

「全く、あなたを見てると寿命が縮むわ」

「……なら、別れるか?」

「何でそうなるの!?」

 アンジェの突っ込みに、アイラは小さく首を傾げた。そんな彼女を見て、アンジェが再び溜息を吐く。

 そのとき、部屋のドアがノックされた。誰かと出て見れば、宿の女中が立っている。

「……何か?」

「お客様に、お会いしたいという方が下にお見えです」

 降りてみると、所在なげに立っているユートと、彼に手を引かれているリイシアの姿が見えた。

 降りて来たアイラを見つけて、ユートが少しほっとした表情になる。手を振るリイシアに向けてアイラも右手を挙げて見せた。

「用があると聞いたが」

「ああ。すまないが、他の三人も呼んでもらえないか」

「ん、分かった」

 間もなく集められた三人も、この意外な来訪者に驚いたようだった。特にネズは、どうしたものかというように、アイラ達から、少し離れた場所に立っている。

「娘を助けてくれたことに感謝する。些少だが、これはその礼だ。受け取ってくれ」

「確かに。嬢さん、元気でな」

 リイシアがこっくりと頷く。

「ネズ」

 名を呼ばれ、ネズはびくりと顔を上げた。

「今から伝えるのは、“長ノ決議”で決まった内容だ」

 ネズの顔に浮かぶ緊張の色が濃くなる。

“長ノ決議”は、少数民族の長が、部族について下す最終決定のことを指す。これが一度下されたなら、その内容が覆ることはまずない。

「離反した以上、お前をサウル族に戻すことはできん。だが、お前の行動が、リイシアを助ける一助となったのは事実だ。故に、これから三年の間、お前が我らの前に姿を見せることは許さん。三年過ぎた後には、我らの元に戻ろうが、離れたままでいようが、お前の好きにするといい。三年後の今日、ここでお前の答えを聞くことにしよう」

 ネズの顔に驚きが、次いで理解の色が浮かぶ。

「ありがとう、ございます……!」

 深々と頭を下げるネズ。ユートがアイラに視線を向ける。

「すまないが、この証人となって貰えるか?」

「……私でいいのか?」

「ハン族の長であるヤノス殿の娘御、しかも“アルハリクの門”とくれば、文句を言う者もいないだろう」

「ふむ。分かった。ではハン族の長、ヤノスの名代として、そして“アルハリクの門”として、“長ノ決議”が下されたことを証言し、その内容に異議が無いことを認めよう。……これで、いいか?」

「感謝する」

 ユートはきっちりと礼をし、リイシアは手を振って、二人は宿から去って行った。

 

 

 

 翌日の早朝、サウル族はカチェンカ・ヴィラの南西にある、ビルイーズに向けて発ち、クラウスとネズもまた、東部の、クラウスの実家へ向かうべくカチェンカ・ヴィラを発った。

「あなたはどうするつもり?」

「……もう少し、南へ行こうかと思っている。アンジェは、どうする?」

「そうね。もうしばらく、ついて行ってもいいかしら」

「……ご自由に」

 そう言ったアイラの口元が、ほんのわずか綻ぶのを見て、アンジェもくすりと微笑んだ。