早朝の会談
しばらくの間、ユートを見ていたアイラは、口の端を少し緩めて頭を下げた。
ユートも、それを見て頭を下げる。
『……そっちに行っても?』
『あ、ああ』
ユートが頷くのを見て、アイラは彼の方へ歩み寄る。
『お前に用があった』
『……奇遇だね。私もそうだ』
アイラの言葉に、ユートが驚いた顔になる。
彼に案内され、アイラはユートが使っているテントに向かった。
長のテントは、他のものより少し大きい。中も広く、それがアイラに、父の天幕を思い出させた。
ユートと差し向かいで腰掛ける。
携帯炉に火を起こしたユートは、傍の包みから、串に刺した干し肉と、陶製の瓶を取り出した。
瓶を傾け、黒みがかった茶色のタレをかける。
意外に器用な手つきで、ユートは肉を焼いていく。
何本か焼けたところで、ユートは串をアイラに手渡した。
受け取ってかじると、タレがぴりりと舌を刺した。肉を噛んでいると、その旨みが口に広がる。
満足げなアイラを見つつ、ユートも串焼きを一本頬張った。
食事を終えると、ユートは灰を被せて火を消し、炉を元あった場所へ片付けた。
『……それで、用は? まさか食事のために、ここまで連れて来た訳じゃないだろう?』
『お前に、聞きたいことがある』
『……何を?』
『お前はハン族の娘だったな。全てを無くしたからここにいるのだと言ったな』
アイラは記憶を辿るように軽く唸り、ややあって頷いた。
『……言ったね』
『ロウクルに全て奪われておきながら、なぜ、ロウクルと関わって生きることを選んだ? 復讐をしようとは思わなかったのか?』
ユートの問いかけに、アイラはしばらく黙っていた。
(彼は、どこまで知っているのやら)
彼が知っているのは、表向きの理由か、それとも真実か。
どちらであっても、アイラは別に構わない。
『……復讐は、する意味がない。あの襲撃を生き延びたのは、私だけだから。それに……私は、誰か個人を嫌いになっても……“人”を嫌いになったことはないよ』
考えながら話すアイラの言葉を、ユートはじっと聞いていた。
『なぜだ?』
『……知っているから』
さらりと答える。怪訝そうに、眉根を寄せるユートの顔を見ながら、アイラは言葉を続けた。これまでに、出会った人間を思いながら。
『ロウクルでも、ロウクルでなくても、見ず知らずの人間に手を差し伸べる者もいるし、自分と考えが違うというだけで、他人を排除しようとする輩もいる。血の繋がりのない人間を、本当の子供のように扱う人間もいれば、少数民だからと他人を見下して生きる人間もいる』
アイラは真正面からユートの顔を見つめた。
『私は何度も騙された。裏切られた。何度殺されそうになったか、もう分からない。死にかけたことも、何度かある。それでも……私は“人”と関わって生きていたい。“人”が好きだから』
そう言うアイラの顔は、滅多に見られないほど穏やかだった。
『なぜそう思える? そんなに何度も騙されていれば、他人など、信用できなくなるはずだ』
『……私の考えを、勝手に決めないで貰おうか。私はあなたのように、一人が自分を騙したからといって、他の全員が、同じように自分を騙すものだと考えている訳じゃないと言うだけだ』
ユートが黙り込む。
『正直に言って、俺は、これからどうすべきなのか分からない』
アイラの眉が跳ね上がる。彼女は一言も発そうとせず、ユートの言葉を待っていた。
『我々が、立ち行かなくなってきているのは分かっている。だが、今更掟の撤回など』
『なぜ?』
今度はアイラが問う番だった。
『間違っていたと分かったなら、取り消せばいい。何を悩むことがある? ……それとも、間違いを認めることになるのが嫌なのか?』
一瞬、ユートの目に炎が揺らめいたように見えた。
『そうなのかもしれない。長として、間違うことはできない』
『そも、その考えが間違っているんだ』
ぴしゃりと言葉を返す。
『間違ったなら正せばいい。意地を張って、間違ったままにしておけば、悪い方向に向かうだけだ。……父が言っていた。『部族の利益のためなら、自分の好悪は関係ない』と。ハン族だろうとサウル族だろうと、そこは変わらないだろう? ……私だって間違った。間違って、でもそれを認めようとしなかった。驕っていたから』
アイラの口元が、自嘲的に歪む。
『間違いを受け止めて、間違っているのを認めるまで、四年かかった。私は間に合ったけど、誰でも間に合う訳じゃない。……省みるなら、今しかない。それとも、ここで意地を張って、新たなヤツトを育てるつもりか? 昨日も言ったが、リイシアを助けたのはロウクルの男で、リイシアを襲ったのは、離反したとはいえサウル族の男だ。これでもまだ、ロウクルは信用に値しないと言うのか?』
ユートが少し俯いて考え込む。おそらく、ここが正念場だ。
ここで彼が、絶対にロウクルを信用せず、関わらせないと決めれば、それはもう二度と、変わることはないだろう。
『…………どうやら、思い違いをしていたようだな。掟に付いては、考え直すことにしよう』
しばしの黙考の後、ユートがそう呟く。これを聞いて、アイラは内心でほっと息を吐いた。
「もう一つ聞きたい。……なぜ、ネズを助けた?」
そう尋ねるユートの視線は、アイラの左手に向いている。血止めのために巻かれた布には、じわりと血が滲んでいた。
それよりも、彼が言葉を共通語に改めたことに気付き、アイラは細い目をわずかに見開いた。
ユートもアイラの挙動に気付き、苦笑を浮かべる。
「間違いを認めたなら、受け入れていかなくてはならないからな」
「そうだな。……ネズを助けたのは、彼がいなければ、私は死んでいたからだ。命の恩には命で報いる。それが、私達のやり方だ」
ネズに答えたのと、ほとんど同じ言葉を返し、質問を付け加える。
「彼をサウル族に戻すことはできないのか?」
「それはできない。結果がどうあれ、ネズは我らから離れた者だ。……だが、彼が別の場所で生きるのなら、それを咎めることはない」
「ふうん。そう、伝えておこう。……リイシアは、どうしている?」
「別のテントで休ませている。……あの子にも、辛い思いをさせた」
そう言うユートの顔は、長ではなく一人の父親のもの。
「……そうか。ゆっくり休ませてやるといい」
「そのつもりだ。そういえば、お前は何の用があってここに来た?」
アイラは思い出したように姿勢を正す。
「……昨日、言い忘れていたことがあってね。……二十年前、ランズ・ハンで助けてくれたことに、感謝を。……あのときは、言えていなかっただろうから」
ぺこりと頭を下げるアイラ。呆気に取られてその姿を見ていたユートだったが、やがて思い出したように頷いた。
「ああ、そうか。どこかで見たとは思っていたが、あのときの……。だが、あの後で礼は言われたと思うが」
「そうかもしれないけど、もう一度、きちんと伝えておきたかった。それに、こうして差し向かいで話せるような機会が、次にいつ来るか分からないからね」
珍しく、うっすらと笑みらしきものを浮かべるアイラ。その顔の向こうに、ユートは確かに、無邪気な子供の影を見た。二十年前、ランズ・ハンで見た、澄んだ瞳の少女の影を。
「それじゃ、私は失礼するよ。もしも用があるなら、『青の紅玉』という宿にいる」
そう言い置いて、アイラはテントを出た。
ぽつりと冷たいものが頬に当たる。
(……また雨か)
雨がひどくなる前に、と、アイラは宿へ向かって駆け出した。
→ 新たな道