村の市

「明日村に行かない?」

 その夜、ミウは目の前で夕食を食べているアイラに問いかけた。アイラはゆるゆると食事を取りながら、ミウに顔を向ける。

「……なぜ?」

「明日は私も姉さんも教会に行くから、家に一人だと退屈じゃないかと思って」

 アイラは黙して答えない。ミウも重ねては尋ねず、クリーム煮を口に運ぶ。

「……教会には、行かない。村には行ってもいいけれど」

 しばらく経ってから、ようやく口を開くアイラ。

「そうね。なら私達が教会にいる間、市を見ていたらどう? あんまり良い物はないかもしれないけど、時間潰しにはいいでしょ」

 横からリウが口を挟む。リウの言葉を聞いて、アイラはじっと皿を見つめる。何か考え込むように。

「……なら、行く」

 ようやく答えたアイラの声は、ひどく低いものだった。

 部屋に戻ってからも、アイラは眠ろうとはせず、ベッドの端に腰掛けて、じっと部屋の隅を見つめていた。

 ここ数日の記憶や、まとまりのない思考の断片がアイラの頭の中をぐるぐると回っている。狂信者。双子。盗賊。その他に、途切れ途切れの記憶がいくつか。

 アイラは無意識に、頭を窓にもたせかけた。ひんやりとした窓ガラスが、アイラの頭を冷やし、鎮める。ガラスに映る自分の顔の向こうに、雪景色が見える。

 そのままとろとろと微睡む。微睡みは深くなり、いつしかアイラは座ったまま、ぐっすりと眠り込んでいた。

 早朝、ミウが軽食を用意している音でアイラは目を覚ました。座って寝ていたせいで、首と肩はひどく凝っており、ずきずきと痛む。首を回し、肩を揉みながら服を着替える。

「おはよう。何か上に着ない? それじゃ寒いわよ」

「必要なら、向こうで買う」

 やがて支度を整えたリウも降りて来て、三人は食事を済ませた。

 出かける前に、アイラは以前のように口元までスカーフを巻き、キャラバンサライの市場で買ったきり、すっかり忘れていた毛皮の帽子を被った。

 外に出ると、寒さが肌を突き刺した。外に出るからとアイラも普段より着込んではいたが、やはり防寒着がないと寒い。

 ミウが先に立って、雪かき杖で積もった雪をかき分けながら歩いて行く。

 アイラはしんがりで、周囲に気を配りながら歩いていた。辺りに人の気配はなく、聞こえるのは三人が進む音だけ。

 トレスウェイトの村までは歩いて十分ほど。村に着くと、リウとミウは教会へ向かい、アイラは一人市の方へと向かった。

 市に来ている者は少なかった。たぶん皆教会に行っているのだろう。

 時折、アイラに物珍しげな視線が向けられる。アイラはそんな視線は好きではないのだが、つとめて平気なように振る舞った。

「どこから来なさったんだね?」

 防寒着を買いに寄った店で、主人がアイラに問う。アイラは少し考えて、中部から、と短く答えた。

 防寒着を選ぶのは、アイラの予想以上に手間取った。というのも、アイラにぴったり合うものが中々見つからなかったのだ。アイラは実際、子供と間違われるほど小柄で、その上ずいぶん痩せていた。そのため、あるものは彼女には大きすぎ、またあるものは小さすぎた。

 やっとのことで、アイラはどうやら合うものを見つけ出した。それもぴったりではなく、むしろ服に着られているとでも言った方が正しい具合だったが。

 買ったばかりの防寒着を着て、市を見て回る。防寒着は前に着ていたものより重かったが、その分温かい。

 気の向くままに歩き回る。市としての規模は小さいものだが、食料品、衣類、雑貨と一通り売られている。

 ちらほらと人が増え、徐々に市は賑わいを見せ始める。アイラは近くのベンチに座って、人が行き交うのを眺めていた。他人に興味のないアイラだが、こうして人を見るのは好きだ。

 一つでも多くのものを売ろうと声を張り上げる商人。日用品を買いに来たらしい女達。菓子や玩具をねだる子供。剣を腰に下げ、粗末な鎧を付けた警備の兵士に、がっしりとした体つきの労働者。

 不意に、市の一角でわっと騒ぎが起こる。アイラのいる場所からは離れているので、がやがやと言うのが聞こえるだけで、細かいことはよく分からない。しかし、しばらく眺めているうちに、どうやら二つの店の間で何やらもめているらしいと何となく分かった。

(他の店のことなど、放っておけばいいのに)

 喧嘩に気付いた警備兵が、すぐに仲裁に入る。そのために騒ぎは更に大きくなったが、少しずつ静まっていく。

 ようやく騒ぎがおさまると、人々は何事もなかったかのように買い物を続ける。それでも店の近くでは、警備兵が二人ほど目を光らせている。

「何か面白いものがあって?」

 声の方に目を向けると、礼拝を終えたリウが立っていた。少し遅れてミウもやって来る。

「特には。喧嘩はしていたけど」

「あら、そう」

 喧嘩があったと聞いても、リウはさして驚いた様子を見せなかった。ここではよくあることなのかもしれない。

「そうだ、明日の昼に、牧師さんが奥さんと子供と一緒に家に来られるんだって」

 リウの言葉に、アイラの顔は凍り付いたようになった。もし彼女がスカーフを外していたならば、その顔が二人にも見えただろう。

 三人で市場を歩く。目的を持っているリウは、真っ直ぐにどこかへ向かっている。ミウはすれ違う人々や店の主人と時々話をしながら後に続く。

「そっちのは誰だい? 見ない顔だが」

「家のお客さん」

「何してるの、ミウ。置いてくよ?」

「あ、待ってよ姉さん」

 ミウが慌てて足を速める。アイラも足早にその後をついて行く。

 リウがまず向かったのは、籠や笊などを並べている、小さな露店だった。買われたのは一つのパン籠。

 それから彼女は、てきぱきと、主婦らしいちょっとした取引も交えつつ、あちこちの店で卵や野菜、肉、それに生花を買って回った。

 買い物の間、リウとミウは楽しげに話していたが、アイラは頭を少し俯けて、必要がない限り口を開こうとしなかった。そして必要があっても、二語以上の言葉がその口から出ることはなかった。

 三人で歩いていると、一人でいたときよりも多くの視線にさらされる。アイラは知らなかったことだが、彼女が盗賊を返り討ちにした話は、どこから漏れたものか、既に村中の噂になっていた。村人達はアイラの容姿こそ知らないが、双子の姉妹の顔はよく知っている。そのため三人が一緒にいれば、大抵の人間は察しをつける。

「その人かい、盗賊をやっつけたっていうのは?」

 ちょうどすれ違った、年輩の女がミウに声をかける。女の言葉はミウに向けられ、視線はアイラに向けられる。

「そうよ」

 へえ、と女は驚きと感嘆、それに疑いの混じる声を上げる。じろりと値踏みするようにアイラを見る目は、こう言っていた。

 こんな小さな女に、どうしてそんなことができたのだろう?

 アイラの方は、冷たい目を一瞬その女に向け、すぐにその言葉を読みとった。そしてアイラの灰色の瞳は、更に冷たさを増した。

 こういうことが数回繰り返され、ついには帽子とスカーフの隙間から覗くアイラの目は、氷のようになり、その奥で、暗い炎が揺れていた。胸の奥では、よく知っている暗い感情が、ふつふつと沸き立っている。

 家に帰ったときには、アイラだけでなく、リウやミウもげんなりしていた。

「やれやれ、まさかあんなに質問責めにされるだなんて思わなかったわ。疲れたでしょ、アイラ」

「……少し」

 買ってきたものを手早く整理し、明日作る料理の下拵えをするリウ。その横で、ミウが熱い紅茶を淹れる。買ってきた焼き菓子も添えて。

「一つ良いことは、」

 ミウが菓子を一つ摘んで快活に言う。

「家は離れてるから、誰もわざわざ来ようとはしないことね。家にまで来られちゃ、たまんないもの」

 ミウの指がもう一つ菓子を摘む。アイラも菓子を一つ口に入れ、湯気の立つ紅茶を飲む。

 その内に、菓子がほろりと崩れるように、アイラの持っていた暗い感情も、ほろほろと崩れて消えていった。