東から北へ

 アンジェがヤサカ市の神殿を発ったのは、アイラからの手紙を受け取った翌日のことだった。
 手紙を受け取った日の夜、部屋の入り口に現れた気配に、アンジェはふと目を開いた。
「誰?」
 静かに訊ねるが、答えはない。
 そろりと低いベッドから降り、サイドテーブルの燭台に火を灯す。裸足の足に、硬い敷物が触れた。
 蝋燭の淡い光で戸口を照らす。そこには、少年のように小柄な体格の人影がじっと立っていた。その足下には、赤い血溜まりが作られている。
 アンジェは小さく手を震わせながら、蝋燭の灯りをゆっくりと上げていく。
 首元に刻まれた刺青が目に入る。それで誰が立っているのか察しつつ、さらに手を持ち上げると、血で所々が固まった、灰色の髪と、血の気の失せた顔が見えた。
「アイラ……!」
 はっと息を呑む。アイラはゆるりとアンジェに目を合わせるように顔を上向けた。
 左半面が血で彩られたその顔に、アンジェは思わず、ひ、と小さく声を上げる。
「ど、どうしたの! 手当てするから、こっちに――」
 アイラの手を掴んだ、と思った瞬間、アイラの姿は煙のように消えてしまった。
 はっと我に返る。アンジェの身体はベッドに寝ていて、部屋の扉も閉まっている。人が立っていた様子もない。
(今のは……)
 ただの夢だと片付けてしまうには、それはあまりにも真に迫っていた。
(もしかしたら、アイラに何かあったの?)
 ごくりと唾を飲む。ヨークで、アイラもこんな思いだったのだろうか。
 どきどきと、心臓が鳴っている。いてもたってもいられず、今が深夜だということも忘れて部屋を出たアンジェは、エンキの部屋へと向かった。
「どうしました?」
 深夜に血相を変えて飛んできたアンジェに、ベッドに入ろうとしていたエンキは、少々驚きながらも彼女を部屋に招き入れた。
「実は――」
 簡潔にまとめられたアンジェの話を、エンキは頷きながら聞いていた。
「ただの夢ではない、ということですか?」
「はい。あんな夢を見たのは初めてですが、ただの夢だとも思えないのです」
「しかし、その身体では――」
 言いかけて、エンキは口をつぐむ。
 目を赤く腫らしたアンジェは、唇を固く引き結んでいる。この様子では、説得もきかないだろう。
「北部に行くなら、せめて朝になってからになさい。早便の支度をしておきますので」
 エンキの言葉に、喉まで出かかった、食い下がる言葉を飲みこんで、アンジェは礼と、遅くに訪ねた謝罪を述べて部屋を辞した。
 自分の部屋に戻り、ドアを開ける前に、アンジェは一瞬ためらった。中に血塗れのアイラが立っているのではないか、という想像を振り払い、ドアを開ける。
 部屋は、アンジェが出てきたときのままだった。ベッドに横になったものの、寝つけそうにない。
 何度目かに寝返りをうったとき、燭台の横に置いていた小さな木彫りが目に入る。
「クアン」
 木彫りを取り上げる。
「ねえ、アイラは……大丈夫よね?」
 手の中の木彫りを握りしめる。ただの夢であればいい。ただの夢であって欲しい。
 アイラが兄メオンを殺したことを、アンジェは赦してはいない。だがずっと旅を続けて、アイラにとってアンジェが大切な存在になったのと同じように、いつしかアンジェにとってもアイラは、大切な存在になっていた。いなくなると考えただけで、背に冷やりとしたものが走るほど。
「レヴィ・トーマ。どうかアイラをお守りください」
 夜が明けるまで、アンジェは一人祈っていた。
 翌朝、旅の準備を整えたアンジェは、エンキから早便用の通行手形を手渡された。
「これをお使いなさい」
「ありがとうございます」
 この早便用の通行手形はレヴィ・トーマの聖職者に許される、特殊な手形である。これを各地の神殿に提示することで、神殿が有している特別な交通手段を利用できる。
 早便と呼ばれるこれは、オルス産の馬を使った四頭立ての馬車で、小回りが利く上に、元々国土のほとんどが山というオルス王国の山で育てた馬は、悪路でも苦も無く進む。その上速度も普通の馬車よりも速いため、急使を立てる際に使われるものだった。
 早便を使ったのは初めてのアンジェだったが、その速度には目を丸くしていた。
 旅慣れたアイラでも数日かかった道を三日で辿り、アンジェは北部の町、オルラントからトレスウェイトへ向かっていた。
 彼女は知らなかったが、巡礼地の傍を通るその道は、去年、アイラが通った道だった。
 トレスウェイトには初めて来たアンジェだったが、村の空気が張りつめているのは肌で感じ取れた。
 少し歩いただけで、やけに鋭い視線を向けられる。それをいぶかしく思いつつ、よそ者だからだろうか、と考えていたとき、前方から何人か、人が来るのに気付いて、アンジェは道の端に寄った。
 一団の先頭に立っているのが、レヴィ・トーマの聖印を首から下げた牧師――アイラからの手紙にあった、エヴァンズ牧師だろう――だと知り、アンジェは軽く頭を下げた。
 牧師もアンジェに気付き、礼を返したが、鳶色の瞳は警戒の色を浮かべてアンジェを見ていた。
「あの、私、何か失礼をしましたか?」
 牧師は、はっと表情を改め、再びアンジェに頭を下げた。
「失礼いたしました。いえ、あなたに落ち度があるわけではないのです。ただ……レヴィ・トーマへの信仰の道を踏み外した人達が、この村に目をつけたというので、皆、ぴりぴりしているんです」
「それは、確かなのですか?」
「確かです」
 アンジェの脳裏を、あの夢で見たアイラの姿が、雷のように走り抜けた。
「アイラは……アイラはどこにいるんです。私はアンジェといいます。アイラの、友人です。アイラはどこにいるんですか?」
 アンジェの言葉に、牧師は少しの間、口を開かなかった。
「……彼女は、村を守っています。こうしている、今も」
 アンジェの濃茶の瞳が、大きく見開かれた。
「あなた方は、どうされるんですか?」
「村を守りに行きます。私達が住む村を、何の縁もない方々に守っていただく訳には行かないでしょう」
 牧師の言葉の強い調子に、アンジェは小さく頷いて身を引いた。
「レヴィ・トーマの御加護がありますよう」
「あなたにも」
 アンジェの横を、一団が通り過ぎていく。ぐっと、杖を握る手に力をこめたアンジェは、そのまま教会を目指した。
 牧師らの後を追ったところで、自分にできることはない。そうかといって、教会で神に祈るだけで済ませるつもりもなかったが、こういった小さな村では、教会が集会所も兼ねていることが多いため、アンジェはとにかく教会へ向かうことにしたのだった。
 幸い、教会にはサリー夫人や村人達が何人か残っていた。まだ懐疑的な視線を向けられながらも、アンジェは村人達から、詳しい話を一通り聞き取った。
「あなたはどうしてこちらにいらっしゃったんです?」
 サリー夫人の問いに、アンジェは簡潔に、自身の事情を物語った。傍でそれを聞いていた双子の姉妹が、何かを納得したように頷きあっている。
 アンジェが話を終えると、族長ドゥクスと呼ばれていた男が、ぎろりと彼女に目を向けた。
「あんたが奴らの仲間でないと、どうして証明できるかね。こんなときにこの村に来るなど、“狂信者”の仲間としか思えないが」
「疑われるのは最もだと思いますけれど、神に誓って、私は“狂信者”ではありません」
 真正面から、族長ドゥクスの視線を受け止める。
「私は信じるわ」
 ぴたりと揃った二つの声が上がる。アンジェの後ろで、リウとミウが上げた声だった。
 振り向いたアンジェに、双子の姉妹はにっこりと微笑みかけた。
「アイラから、あなたのことは聞いていたもの」
「それに、アイラが嘘を吐く訳はないし」
 かわるがわる、双子が言葉を紡ぐ。
「だが、あんたは何をするつもりだね。祈ったところで、無駄に決まっている」
「私は私にできることをします。私はアイラのように戦える訳ではありません。けれどもレヴィ・トーマの聖職者として、『治癒』は心得ていますから、そちらでお役に立てることと思います」
――この先何かあったら、そのときは自分が最善だと思う行動をとれ。
 アンジェはそう答えながら、アイラの言葉を思い出していた。
「無駄だ、無駄だ、全ては無駄だ」
「いいえ。無駄ではありません。帰って来ると信じて待つことが、そのために、迎える準備を整えることが、今の私達にできることです。皆、きっと戻ってきます」
「その通りですとも。ええ、私は、布を家から持ってきましょう。包帯も綿撒糸めんざんしもたくさんいるでしょうからね」
「お手伝いします」
 サリー夫人が、双子が動き出す。それにつられるように、一人また一人、教会に残る村人が声を上げる。
 動き出した彼らを、族長ドゥクスの男は呆然と眺めていた。彼は信じられなかった。目の前で全てが奪われ、何もかもが崩れ去ったあの衝撃を、彼はずっと抱えていた。
 だからこそ、懐疑的な眼でしかものを見られなかった。目の前で動き出した村人達の行動も、無駄としか思われなかった。
(結局、全ては無駄になるのだ)
 低い呟きは、彼の口の中で消えていった。