森の端で
岩屋を出た四人は、川を渡り、再びノドの森に入った。
アイラを先頭に、リイシアとアンジェ、最後にネズと並んで歩く。
襲撃を警戒しながらも、急いでこの森を抜けてしまおうと気は急くが、アイラの身体はそれについていけない。本来なら、まだ寝ているべきなのだ。普段の状態には程遠いのだから。
倒れはしないが、時折視界が暗く歪む。その度に立ち止まり、落ち着くのを待つ。
目眩はすぐに治まるものの、起こる頻度は多い。
「大丈夫? 無理しないでよ」
何度目かに休んでいるとき、後ろからアンジェの声が飛んできた。それに大丈夫、と答え、額に浮いた汗を拭い、また歩き出す。
早く、早く、と思いながら足を運ぶ。それでもアイラの思うほど、足は急いでくれない。
そのことに、内心苛立ちが募る。
急がせたせいだろうか、足がもつれる。次の一瞬には、アイラの身体は大きく傾いていた。
とっさに手を出したので、顔から倒れ込むようなことにはならなかったが、代わりに両手と膝とがひどく痛んだ。どくどくと、脈打つような感覚もある。
舌打ちをして身体を起こす。
「少し休みましょう。急ぐ気持ちは分かりますが、このまま進む方が危ない」
やや息を切らしながら、手足の土を払うアイラに、ネズが声をかける。辺りに自分達以外の気配がないことを確かめ、アイラは近くの木にもたれて座り込んだ。
改めて、痛む手と足を見る。足は何ともなかったが、手は擦り剥いてしまっていた。傷にはまだ血が滲んでおり、ずきずきと掌が痛んだ。
「怪我したの? ちょっと見せて」
アンジェがアイラの手を取る。リイシアに手伝わせながら、アンジェは手際よく湿らせた布で傷口から染み出す血と、傷の周辺についた土を拭う。それが終わると、アンジェは自分の荷物の中から青い小瓶を取り出した。
瓶の中には、少し赤みがかった液体が入っていた。それを別の布に染み込ませ、傷口を軽く叩くようにして液体を塗る。どうやら、中身は消毒薬らしい。
布が触れた瞬間、鋭く傷が痛み、アイラは思わず顔を歪めた。それにつられたのか、見ていたリイシアも顔を歪める。
「別にそんな顔しなくっていいよ」
思わず共通語で呟く。言ってから、反応のないリイシアに気が付き、民族語で言い直すと、少女は少し顔を俯かせた。
『だって、痛そうだもの』
アンジェは二人のそんな様子に注意を払うでもなく、慣れた手つきでアイラの手に包帯を巻く。
「これでいいでしょ。擦り剥いただけみたいだし、すぐに血も止まると思うわ。足の方は大丈夫?」
「……ああ」
一言だけ答え、水筒の水を呷る。
アイラの予想以上に、彼女の身体は弱っていた。まだ毒の影響も身体に残っている。調子が良いとはお世辞にも言えない。
いざというときに、この状態で思い通りに動けるだろうか。
暗い不安が、アイラの胸に浮かんだ。
「本当に、無理しないでよ。ひどい顔色だもの。熱でもあるんじゃないの?」
考え込むアイラに、アンジェが言葉をかける。その口調は本当に心配そうで、とても以前、アイラを兄の仇と付け狙っていた人間と同一人物とは思えない。
「……いつものことだ」
アンジェにそうぼそりと返し、干し果物を一切れ噛む。もう一切れ口に放り込み、飲み込むというより水で流し込み、ふう、と吐息を漏らす。
額の汗を拭うアイラの顔には、きつい色があった。
『大丈夫?』
リイシアも、気遣わしげに覗き込んでくる。
『大丈夫だよ。まだ動ける』
そう答えても、リイシアはまだ不安げな様子だった。
「さ、行こう」
木を支えに立ち上がり、歩き出す。その歩みは先よりも遅い。
アイラは意識的にゆっくりと息をしながら、その呼吸に合わせて足を運んでいた。無理に急ぐより、こちらの方が楽だ。
(この森さえ抜けてしまえば、レンヒルに着く。あそこは人目が多いから、襲われないだろう)
ぼんやりする頭を働かせる。ふと寒気を覚え、アイラはスカーフをきつく巻き直した。
「ネズ、森を抜けるまで、後どれくらいかかる?」
「もう半分は過ぎていますから、そうですね……あと二時間もかからないと思いますよ」
ネズの言葉にアイラは頷きを返し、それまでと同じペースで歩みを進める。
一方、振り返ったときに見た彼女の顔色が、ひどく悪かったのが気になり、ネズはアイラに声をかけた。
「アイラさん、本当に大丈夫ですか? 何かあったら、言ってくださいよ」
「……ん、分かってる」
アイラの受け答えはしっかりとしている。
それでも、ネズの不安が拭えた訳ではない。歩きながら、ネズは荷物から薬包を取り出し、小走りでアイラに駆け寄った。
「……これは?」
包みを見たアイラが首を傾げる。
「ヤマチの葉と蜜を混ぜたものです。疲労の回復には、いいかと」
「ふうん。ありがとう」
丸薬を口に入れると、ほのかな甘さを感じた。そのまま飲み下す。
しばらく歩くうちに、薬の効果か、感じていた疲労感が少し軽くなる。が、それ以上に頭が重い。おそらく、今の自分は、いつ倒れてもおかしくない。
(……とはいえ、まだ倒れるわけにはいかないな)
努めて大したことはないように振る舞いながら、アイラは先へ先へと進んでいく。
(しかし……ヤツトの一味が待ち伏せていると思ったが……動いたのはあの女だけだったのか?)
歩きながら考える。頭はぼうっとしており、何かを考えるのは正直言って億劫だが、今はそんなことを言っている場合ではないだろう。
(彼らが襲ってくるとしたら。森の中か、森を抜けた直後になるはず。そこさえ上手く切り抜けられれば……)
森の中は静かで、何の音も気配もない。
ここまで広い森だ。普通なら、鳥や動物の姿を見ることもあるはずである。しかし、今はそれがない。まるで、何かに怯えて、生き物達が気配を殺してしまっているかのようだ。
この状況は先日、待ち伏せされたときと同じ。
普段のアイラなら、もっと早くこのことに気付き、対策も取っただろう。
後少しで森を抜ける、というところまで来たとき、不意に四人の周囲から、濃い殺気が立ち上った。
一瞬遅れてはっと身構えるアイラ。アンジェは咄嗟にリイシアを抱き締め、ネズも緊張した面持ちで周囲を見回した。
茂みや木の陰から、次々と現れた男女六人が、殺気に満ちた目で四人を見据える。
(囲まれた!?)
アイラは素早くアンジェとリイシアを庇う位置に立ち、神の盾を作り出す。
アイラの正面にいた男が、持っていた短剣を振り下ろす。剣と盾がぶつかり合う音が、辺りに響いた。
「ぐ……」
男の体重が、腕にかかる。耐え切れずに、アイラは地面に膝をついた。
それでも、何とか刃を跳ね上げようと、左手で腕を支え、力を込める。
彼らの持つ短剣がどんなものか、アイラは既に知っている。切られる訳にはいかない。
じわりじわりと、襲撃者達は輪を詰めてくる。
片腕が円盾で塞がっている以上、両腕が必要な断刀は使えない。左腕が使えるならば、玉破を放ってもいいのだが、今手を放すと、ぎりぎりで保たれている均衡が崩れる。
そして今の状態を、長く持たせることはできない。後数分も経たないうちに、この均衡は破れるだろう。
(くそ……どうすればいい?)
金属の擦れる音。直後、男の目がうつろになったかと思うと、その身体が傾き、どさりと地面に倒れた。
「おー、真っ昼間から旅人襲うなんて、元気だなー、って何だ、アイラじゃねーか。何でまだここにいるんだよ」
男の背後に立っていた、金の髪の男――クラウスが、呆れたような声を上げる。
襲撃者達は、一瞬呆気に取られていたようだが、すぐに我に返り、クラウスにも殺気を向ける。
クラウスは口の端を吊り上げ、剣を構え直す。アイラも立ち上がり、頭を切り替えた。
「こいつらの武器には毒がある」
「了解」
短く言葉を交わし、クラウスは一気に間合いを詰めると、目の前の男に向かって切りかかった。
アイラも断刀を作ると、クラウスが切り込んだのとは逆の一団へと切り込む。
このときばかりは、アイラも自分の体調を忘れていた。
目の前に立ち塞がった男を切り捨てる。転瞬、死角から短剣がアイラの喉元めがけて突き込まれる。
アイラの喉に短剣が突き刺さるかと思われたとき、短剣を持っていた女の身体が縛られる。
(『制止』か)
アンジェに感謝しつつ、女の胸を貫く。胸から刃を引き抜き、最後に立つ男の間合いへ一気に踏み込む。
男が短剣を構えるより早く、断刀が男の胸を深々と切り裂いた。
ちょうど、クラウスの方も片付いたらしい。剣を収める音がアイラの耳に届く。
「もういないみてーだな……いや、あんたは、どっち側だ?」
クラウスの目はネズに向いている。
「……彼は違う」
アイラの言葉に、クラウスは一瞬眉をひそめ、それから一言、そうか、と呟いた。
「じゃ、さっさと町まで行くぞ」
数歩歩きかけたクラウスは、ふと足を止め、ちらりとアイラに目をやった。
アイラはそれまでと同じ速度で歩いているものの、その足元はおぼつかない。
クラウスは足を止めたまま、アイラに背を向けてかがみ込む。
「乗れよ」
「…………別に……まだ動ける」
「嘘つけ。三歩歩いたら倒れそうな状態のくせに」
そう言われると言い返せない。アイラは、苦虫を噛み潰したような表情で、クラウスの背に身体を預けた。
→ 夢と死